続・想像力不足を援助者が期待するストーリーで埋めるということについて考える

公開日: 2012/01/22 MSW SW解体新書制作委員会 思索


過去のエントリ:「想像力不足を援助者が期待するストーリーで埋めるということについて考える」のおいて以下のように考えを記しました。
「援助者側の想像力不足(もしくは怠慢)から生じる埋められないギャップ、そのギャップを埋めるために、援助者側が安易に「期待するストーリー」を織り込むというソリューションを採用することは果たしてよいことなのか?」という疑問が生まれたのです。

ここで考えておくべきなのは、援助者が瞬時の想像力で埋められないギャップを安易に「期待するストーリー」を織り込みフラット化する際の、「期待するストーリー」には良くも悪くも援助者の価値観が露になっている、ということです。
ソーシャルワーカーたちが、援助者として、患者さん家族が持つエピソードと客観的事実がどうしても想像力で埋められないとき、ふと、安易に援助者側にとって都合の良い「期待するストーリー」を織り込むことで、そのギャップを埋めようとするソリューションを採用しようとしていないかを、戒め、立ち止まり、考えるべきなのでは、という問題提起でもあります。

上記エントリの最後に、

ソーシャルワーカーたちが、援助者として、患者さん家族が持つエピソードと客観的事実がどうしても想像力で埋められないとき、ふと、安易に援助者側にとって都合の良い「期待するストーリー」を織り込むことで、そのギャップを埋めようとするソリューションを採用しようとしていないかを、戒め、立ち止まり、考えるべきなのでは、という問題提起でもあります」

と記しました。本エントリでは、上記文脈についてもう少し具体的表現を用いて記していきたいと思います。




【本文脈におけるギャップの定義


ここでは、クライエントの方が過去に経験されてきたエピソード(例えば、離婚した、重度障害を負った、近親者を亡くした、失職した、など)と、目の前にいるクライエントの方が持つ雰囲気や社会的な立ち位置などの間に大きなひらきがあり、容易にはその間をイメージで埋められない状況をギャップと定義しました。


例えば、社会一般的に「悲惨、苦難」と言われるような過去のエピソードを有している方が、今現在、社会的に成功されているという客観的事実がある場合に、「容易には他者が想像しがたい過去から現在までのその人が生きてきた時間」を「苦難を乗り越えて努力された人」という援助者側の期待するストーリーを用いることで安易に理解した気になってよいものか、ということについて考えてみたいと思ったわけです。



援助者側が、ギャップを安易に「期待するストーリー」を織り込みフラット化することの意味


クライエントの方が有する「容易には他者が想像しがたい過去から現在までの生きてきた時間」に対し、それに付随する社会一般のイメージや個人的な価値観から導かれる援助者側の「期待するストーリー」を用いて、「語りをしっかりと聞かず」に安易なラベル付けをし理解した気になる、ということに対する戒めを援助者たちが持つべきだというのが私の考えです。

ここで考えておくべきなのは、援助者が瞬時の想像力で埋められないギャップを安易に「期待するストーリー」を織り込みフラット化する際の、「期待するストーリー」には良くも悪くも援助者の価値観が露になっている、ということです。



このことに気がついたのは、とある患者さんから「あなたは私が何かを言葉にするのを期待しているように見えるわ」と言われたことがきっかけでした。


過去に大きな災難に遭われ、その後も壮絶な人生を歩まれてきただろうという方なのですが、私はその言葉を聞いたとき「壮絶なエピソードを乗り越え努力してきた人」というストーリー、人間性のようなものをその方に対して、私自身が「求めていた」ことに気がつきました。

おそらく、その方は今まで多くの人から意図せずとも「過去の壮絶なエピソード」と今現在のその人のひととなりを埋める「ストーリーを求められてきた」のだろうとそのときに思い、もう少しそのことについて深く考えてみようと思ったのが、前回のエントリを記したきっかけでした。


【理解しようとする行為に付きまとうもの】
押し付けられた自己イメージや、求められるストーリーというものは、対象となる人にとってはときに負荷となるのだと考えています。


「わからない、理解できない」ということは人を不安にします。
それは援助者として対象となるクライエントと関わる際にも言えることなのだと思っています。

「わからない、理解できない」ということに出会った時に、援助者側の価値観が露になった「期待するストーリー」のみを用いて、その人をラベリングしたり、理解した気になっていないか、という自己評価が必要なのだと思います。


「人は見たいものを見たいようにする習性がある」


上記の言葉を先輩MSWの方からいただきました。
この一言に本エントリの私の論は集約されるのだと思っています。

誰かを理解しようとする行為は苦痛を伴います。

それは、理解しようとする行為は、自分の容量の中に他者を収めていこうとするのではなく、自分の容量を自覚し、拡張した上で、相手を包み込もうとする行為なのだと思うからです。


だから、誰かを本気で理解しようと思ったら、そこには自分の容量の少なさに気づいてしまうという苦痛が待っているのです。


その苦痛を回避しようとして、人は自分勝手な「期待するストーリー」を他者に求めがちです。そうすれば、自分の容量の中に他者を収めていくことができる。自分の容量の少なさに気づくことも無く、苦痛なくいられる。

そんなことを思ったりしています。





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