想像力不足を援助者が期待するストーリーで埋めるということについて考える

公開日: 2011/11/08 MSW



(とある島の日の入り前の一コマ)

最近、遅めの夏休みを取りとある島へ行ってきたHYです。


旅の中でぼんやりと、機会不平等、自己肯定感、言葉。この3つのキーワードから成されるストーリーを無意識に他者に押し付けてしまっていないか、ということを考えていました。


そのきっかけは、とある患者さんの一言でした。


最近担当した中途障害をもつ患者さんから「あなたは言葉少なで、まるでわたしが話す言葉を期待しているみたいね。あなたからはわたしと同じにおいがするのよ。ね、あなた、昔、大変なおもいをされたのでしょう」と言われ、ギクリとしたことがありました。



「まるでわたしが話す言葉を期待しているみたいね」と言ったその患者さんの中途障害のエピソードの惨さと、目の前にいる患者さんの表情言葉がものすごく魅力的だったので、私はその両者を結びつけることができず、そのギャップを想像力ですぐに埋めることができませんでした。


「まるでわたしが話す言葉を期待しているみたいね」


この一言を聞き私の中に、「援助者側の想像力不足(もしくは怠慢)から生じる埋められないギャップ、そのギャップを埋めるために、援助者側が安易に「期待するストーリー」を織り込むというソリューションを採用することは果たしてよいことなのか?」という疑問が生まれたのです。


ここで考えておくべきなのは、援助者が瞬時の想像力で埋められないギャップを安易に「期待するストーリー」を織り込みフラット化する際の、「期待するストーリー」には良くも悪くも援助者の価値観が露になっている、ということです。


その患者さんから向けられた「まるでわたしが話す言葉を期待しているみたいね」という一言はおそらく「中途障害のエピソードの惨さ」を前に多くの他者から勝手に「期待するストーリー」を織り込み続けられてきたことからくる一言だったのだろうと、私はそう受けとったのです。それが患者さんの意識された一言かはわからないですが。


ここで冒頭の『機会不平等、自己肯定感、言葉。この3つのキーワードから成されるストーリーを無意識に他者に押し付けてしまっていないか』という問いに立ち戻るわけです。この3つのキーワードは私個人の価値観を語る上で欠かせないものです。言い換えれば、露になっている価値観、というわけです。


「その人が経験したエピソードの惨さ」を前にして多くの他者から勝手に「期待するストーリー」を織り込み続けられてきた人たち、っていうのは歴史的にみても色々な分野でいるのだろうな、と思うのですが、それを援助者とクライエント間の問題として捉えたとき、


援助者の想像力で埋められない対象者のギャップを安易に埋めようとして援助者の価値観臭のぷんぷんする「期待するストーリー」を織り込み、ギャップをフラット化するというソリューションを採用することは果たしてよいことなのか?という問いはバイスティックの七原則に則り考えれば「No」だと思うのです。


そしてまた『「期待するストーリー」を織り込みギャップをフラット化する』っていうのは援助者にとってなにより楽だし、しかも「対象者を理解した気になれる」っていうオイシいオマケ付きの「キワものソリューションツール」なんだ、ということに気づいてしまったからにはそこにメスを入れないわけにはいかないな、と思うのです。


これはまた、ソーシャルワーカーたちが、援助者として、患者さん家族が持つエピソードと客観的事実がどうしても想像力で埋められないとき、ふと、安易に援助者側にとって都合の良い「期待するストーリー」を織り込むことで、そのギャップを埋めようとするソリューションを採用しようとしていないかを、戒め、立ち止まり、考えるべきなのでは、という問題提起でもあります。


自身の実践に対する問いは自分自身が与えてあげるべきだと思うのです。


「問いなき実践には、怠慢が潜んでいる」


そう心に留めて、日々精進していければというのが日々の小さな目標でもあります。




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