転院相談において援助過程を「バトンタッチ」することについて考える

公開日: 2012/01/08 MSW 思索



転院相談というのは、次の医療機関のソーシャルワーカーに患者さん家族への援助過程を「バトンタッチ」する・される行為なんだ、と思えば、もっとなんか、色々と良くなる気がするのだと日々思っています。(抽象的表現ですいません…)


そもそも「転院援助にソーシャルワークの専門性を見出せない」などとソーシャルワーカーが言葉にするのだとすれば、それはそもそも自身の「専門性」への理解不足もしくは熟考不足だと考えます。


『「転院」はさまざまな事実の絡み合う過程で生まれたひとつの結果』であり、そのプロセスにも焦点を当てられるのがソーシャルワークだ、ということは以前にも記しました。(参照:転院相談にソーシャルワーカーが関わる意味について考える)



私は以前の病院で「転院相談をする・される」両方の立場を経験させてもらいました。
その経験から言えるのは、転院相談を受ける側は、こちらが提供する情報から、絵的なイメージを膨らませて、イメージをある程度こちらと共有しながら、転院相談を受けるということです。(当たり前と言えば当たり前なのですが、それを意識化してするかどうかの問題です)


転院相談をする側から言えば、相手のソーシャルワーカーの方から「絵的イメージを描く過程が相談をするこちら側にも伝わってくる」というある種の緊張感を感じることがあります。そんなとき私は、相手のソーシャルワーカーの方の絵解きイメージのレベルというか質が高いのだろうと感じ、想像するのです。


これは本エントリでの言葉を用いれば、「どのようにバトンを受けるか」という援助をバトンタッチする・されるのイメージに合致するのです。そして、そういったソーシャルワーカーの方は、転院相談をする側の同業者のアセスメントをとても尊重されます。私は、それを感じるとき、電話越しから、その方がきっと日々の現場でも「個を尊重」しているのだろうと想像します。


悲しいがな、転院相談ひとつにとっても、相手のソーシャルワーカーの質は見てとれるのだと思うのです。どのような質問をするか、ということは、どのような物事の(ケースの)見方の枠組みを持っているか、ということとほぼ同義。それは転院相談をする方についても言えることだと思います。


と、私自身が常にそういうことを感じられる状態で仕事をできればよいのですが、未だ未だそうはいかない日々です。今の自分に必要なのは、自分の「実践知フィールド」を全開で開きっぱなしにできる状況を常に創り出すための「余裕」だと感じています。私は決してキャパシティは広くない方なので、自分の中に余裕を生み出す装置や仕事の仕組みをちゃんと用意してあげないと、自分の「実践知フィールド」は瞬く間にクローズドになってしまいます。


春からは私は現場経験6年目に突入します。
少しでも余裕を持って仕事が出来る自分の中の仕組みづくりをより一層強化していきたいなと思う今日この頃です。きちんと援助をバトンタッチできるソーシャルワーカーでいられるように。そう思っています。





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