変化への気づきをシェアすることについて考える

公開日: 2012/01/07 MSW コミュ論 思索

本エントリでは、「変化への気づきをシェアすることについて考える」と題して、人の「自分の中で生じる変化への気づき」、「他者に対して感じる変化への気づき」を自分と他者で共有するということについて考えてみたいと思います。


この仕事をしていて思うことのひとつに、「人の変化」に敏感になったな、ということがあります。「目」を例にとって言えば「目は口ほどにモノを言う」ということわざの意味を痛感することが多くあります。



「目が元気ないよ」「目が死んでいるよ」「目がやる気にみなぎってるね」


上記のような表現をされることもあるように、目の色、目の光量、目の開き具合、瞬きの回数、視線の行き場など。そういった「目」のさまざまな姿が、教えてくれることは非常に多いというのは多くの方が感じていることだと思います。


目の姿が持つ意味について考え始めてから数年経つのですが、経験的に上記のような目の姿から、その人が口にする言葉の感情度みたいなものがある程度予測できるようになってきたように感じています。


例えば、相手が自分に対して抱いている「猜疑心」や「好意的な印象」などは、目の姿に現れることが多いような気がします。それが言葉を発する直前に「目に宿る」ように感じ、その他者の「目に宿るモノ」が、職業的には、援助者側である自分に「心の準備」をさせてくれていることが多々あるなと思っています。


変化には意味があります。
ですが、当然、「変化に対する意味付け」は「変化を感じた側がする主観的なもの」であるので、いくらだって意味付けの数は存在します。


自分自身が感じる自身の変化
他者が自分に対して感じる変化


ふたつの「変化への気づき」が出会うことができるのは、自分自身が「自分はこう変わったと思うんだ」と表明するか、他者が「変わったね」と表明してくれるか、のどちらかしかありません。


両者の「変化への気づき」が出会うとき、そこに新たな意味付けが共創されるのだと思っています。個人的には、そのいっときがすごく楽しくて、大好きなのです。


私は、他者に対して感じる変化が、些細な変化であっても、それが肯定的なものであり、こちらが受けた「肯定的変化」を伝えるべきだと判断した場合は、きちんと言語化して相手に伝えるようにしています。


その際に、こちら側から「意味付けをする」ことは決してしません。


その理由は、こちら側が受け取ったその方についての「肯定的な変化」を言語化し、共有しようとすることで、相手側がその変化についての「主観的語り」をしてくださることがほとんどだからです。


自身がピンとこない「変化」への言及であれば、その反応は素っ気ないものかもしれませんし、また自身も気づいていた変化について、他者からそれを肯定するメッセージを送られれば、「やはりそうだ」と肯定的変化への根拠を強めることになるかもしれません。


他者から受ける「変化」を他者に言語化して伝えるとき、そこにどのような意味を持たせるかは、対人援助職と、プライベートな関わりによってもちろん違うのですが、どちらにしても、他者に対し「変化」を言語化し伝えるということは、「変化に新たな意味付けをすることができる一種の装置」のようなものだと思うのです。


互いが持つ「変化への気づき」をシェアすることができれば、意味付けの数は増えていく。


「自分でする意味付け」「他者がする意味付け」「共に創りあげる意味付け」


仕事、プライベートに限らず、日々生きていく中で、たくさんの意味付けを見出せる「ゆるやかさ」を多くの人たちとつくっていきたいなと思うのです。





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