自己覚知論:「経験」を自身の屋台骨に昇華させるために
公開日: 2011/10/10 MSW キャリアデザイン 思索
最近、仕事に関わらず、「自分はこのままでいいのだろうか」という自身の現状に対する「根拠の無い不安感」にどう向き合うべきかとかいうのという話を同年代の人たちとする機会がありました。
本エントリでは、自己覚知論:「経験」を自身の屋台骨に昇華させるために、という(適当な…笑)テーマで、私個人の経験に引き付けた考えを記していこうと思います。
意思決定の先に生じる何かしらの結果を「経験」と定義し、それを有するのだとしたら、その経験への意味付けを完全にコントロールすることはできないのだと思っています。コントロールではなく「飼い慣らす」という表現が適切だと私は考えています。現代に蔓延するコントロール主義は「自分の心も身体もコントロールしたい」という欲求に基するものだけれども、「過去の経験」だけはコントロールすることはできない、というのが私の考えです。
工学部に1年在籍し、紆余曲折あり、工学部を辞めて福祉学部のある大学に編入した19歳の頃、私は「経験」こそが全てだと心底本気で思っていました。「特異な経験こそが、他者を推し量る武器と成り、そして、それこそが自分を自分たらしめるものだ」ということを信じていました。信じていたかったのです。
でも、それが違うことに20歳の時に気がつきました。自分より過酷な経験をしている人間なんてごまんといるわけです。誰しも「特異な経験」のひとつやふたつは有していて、「経験を有しているからわかる」という考えの浅はかさに気がつき、心底落ち込み、自分を恥じたことを覚えています。
自分の屋台骨がなければ、地に足をつけて立ってはいられない。
けれども、「純粋」に経験したことだけが、自身の屋台骨になる、という考えを自分自身が「浅はかなる誤り」だと定義した以上、その他の方法を探すしかありませんでした。
20歳のときに辿り着いた結論は、「屋台骨を得るには、過去の経験に対する意味付けし、「経験という獣」を檻の中に閉じ込め、飼い慣らすこと。そのプロセスを積み上げていくことが必要だ」ということでした。
「過去の経験に意味付けをし、そのプロセスを積み上げていく。その積み上げられたものこそが、自分自身を支えていくれる屋台骨になる。」暫定的にそう結論付けたのです。
私にとっては、『「過去の経験」という抽象的な概念を、いったん外部化し、可視化し、適度な距離を保つことで、「過去の経験という獣」の姿形をはっきりさせること。そのプロセスを積み重ねること』こそが、屋台骨を形作る作業に他ならなかったのです。
そのプロセスは単純に、経験にどのような意味付けをするか、しているか、してきたか、ということを「吐き出す」作業を経てはじめて、「経験に付する意味」の与え方、積み上げ方がわかるようになるのだと思います。そのことに20歳で気づけたことは、その後の自分の屋台骨を作り上げていく上で、本当に重要なことでした。
そのことに気づき始めた20歳の1年間はずっと「吐き出す」作業を続けることになりました。そして、その吐き出す作業が自分にとって必要だと気づき、見出し、声をかけてくれたのは、とあるソーシャルワーカーの女性でした。とにかく、彼女は「吐き出す」機会を自分に与えてくれたのです。吐き出された「経験に付する意味」たちは、自分の中にフォルダ分けされ、整理されていきました。
経験に付する意味たちが吐き出され、整理されていくプロセスの中で、どうしても「整理することができない経験」があることに気づいたとき、「過去の経験」を意味付けにより完全にコントロールすることはできないのだ、ということにもまた気づいたのです。
「過去の経験」が意味付けによって完全にコントロールできず、「飼い慣らす」に留まざるを得ないのは、「新たな経験」が「過去の経験」とリンクして意味付けを「無力化」することがあるからなのだと思っています。それに対するカウンター(対抗策)として、過去の経験を「現在」から新たに語る=「語り直し」の作業が必要になる、と思っています。そして、この個人的見解が、職業的価値に置いても多大な影響を及ぼしています。【その理由については以前に記したエントリ(参照:ナラティブ・アプローチにおける「語り直し」について)にて詳しく記しましたのでもしよければお読みください。】
というのが、ざっと個人的な経験とその意味付けを踏まえた上での、「経験が持つ意味」と「語り直しが持つ意味」についての私の考えです。
自己覚知は、以前のエントリ(参照:自己覚知における個人的見解)でも記しましたが、自己覚知は「誰かに教えてもらう」ところからスタートするものではない、と思っています。
「過去の経験」が意味付けによって完全にコントロールできず、「飼い慣らす」に留まざるを得ないのは、「新たな経験」が「過去の経験」とリンクして意味付けを「無力化」することがあるから。それに対するカウンター(対抗策)として、過去の経験を「現在」から新たに語る=「語り直し」の作業が必要になる。
自分にとって上記の概念を得るまでの道のりは決して楽なものではありませんでした。でも、だからこそ、その概念(それが新たな経験により、いつかカウンターとしての語り直しを必要とする時がきたとしても)が自分自身を支えてくれる一つの大きな柱として存在し、倒れず、流されず、地に足をつけて生きていくことができるのかな、と思っています。
近い将来、「過去の経験に対する意味付け」を無力化する「新たな経験」が自分の目の前に立ちはだかり、「過去の経験という獣」に首をかっ切られそうになったとしても、カウンターとしての語り直しを以て、「新たな経験」に、きっと自分は立ち向かえるのだろう、と「根拠の無い自信」をもって言えることの意味を考えたとき、冒頭に記した
結局は「100%自分の意志で決定した」ことのほとんどは「後から追いかけてくる意味付け」がそう(だったことに)してくれているのだから、個人的には「根拠の無い不安感」は「根拠の無い自信」で相殺してあげるしかない
という、自分自身の単純なプリンシパル(主義・信条)に立ち戻るのです。
「特異な経験こそが、他者を推し量る武器と成り、そして、それこそが自分を自分たらしめるものだ」
↓
「過去の経験に意味付けをし、そのプロセスを積み上げていく。その積み上げられたものこそが、自分自身を支えていくれる屋台骨になる。」
上記のように過去から現在へと「語り直された言葉たち」が今の私自身を支えています。
そのことに気づいているからこそ、ソーシャルワーカーとして患者さん家族と対峙したとき、その人たちが、どんなプリンシパル(主義・信条)に支えられているのか、ということを教えてもらうことで、「語り直された言葉」たちがもつ意味を一緒に考えていきたいと思うのです。
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