【創作】とある老婆の日記-1【孤独論】
「喜寿のお祝いだよ。一緒にご飯でも食べに行こう」電子音が鳴り響き、その音に驚きながら電話を取ると 孫からの誘いの電話だった。
私は携帯電話を持っていない。機械は難しくてよくわからない。ビデオの機械のディスクを入れるところがある日突然出てきて、何もしないのにおかしいなと思ったら、どうやら壊れたようでもう2週間もそのままにしてある。
喜寿のお祝い。77歳になった。
私はおばあさんになった。
私も、おばあさんになった。
世間は高齢社会と騒ぐ。私も高齢者の1人。年金と貯金で暮らす老いぼれ。
今年、社会人になった孫から、喜寿の祝いを、と食事に誘われた。
孫は嫁に似た、すらりと長身の鼻の高い美人。銀行員として、都内の銀行で働いている。
息子に似なくてよかった、といつも思う。 団子鼻が似てしまっては、女の子には可哀想だろう。
息子の団子鼻は夫に似たのだろうか。それとも私だろうか。
孫との食事に何を着ていこうかしら。
そんなことを思いながら鏡の前で自分の姿を見る。しわしわの顔のばあさんが立っている。
笑顔皺と言われればかわいいものだけれど、何の皺だかもわからないシワがたくさん。
しわしわの妖怪ばばあとだけは言われないようにしたい。
髪は真っ白になって久しい。 毛染めは手入れが面倒なのでやめた。
長男の嫁に、そのままの方が綺麗だと言われたが、お世辞だろうと聞き流していた。
でも、最近、古くからの友人数人にも白い方が似合うと言われ、その気になっている私。
しわしわになろうが、髪が白くなろうが、いつになっても、女は女なのだ。
薄紫のカーディガンを羽織る。
昨年の誕生日に、嫁がくれたプレゼントだ。
ボタンを留める。そういえば、最近、右の人差し指を脱臼してしまった。
数年前に乳癌を患い、それ以来、近くの大学病院でお世話になっている。
整形外科の医師は、私の人差し指を見て、ギブスをつけるとか言う。
冗談じゃない。ギブスなんてつけたら不自由で仕方ない。
洗い物も洗濯も食事の支度も全部一人でやらなきゃならないのに。
だからそれ以来病院に行っていない。
ときどき、指先がちくちくするけれど、放っておいている。
こんなこと、息子に言ったら叱られるだろうから、黙っておこう。
12年前、夫が死んで、私は一戸建ての庭付きの家にひとりになった。
二人で眺めた庭。子どもたちの成長を見守ってくれた庭。
夫が亡くなると、主をなくした庭は荒れ果て、草はいつの間にか私の背丈を超えた。
私は1年に数回、荒れ果てた庭に出る。庭に生えたビワの木。
夫が好きで、生前に植えたビワの種は、大きな木となり、甘い実を実らせるようになった。
息子夫婦に、孫にビワを送るのが毎年の恒例行事だった。
「おじいちゃんが大好きだったビワ。今年も甘い実をつけました。みんなで食べてください。」 と、びわと一緒に手紙を送る。
おじいちゃんのこと、夫のことを思い出してね。
そして、わたしのこと、おばあちゃんのこと、忘れないでね。
という想いを、込めて。
昨年の暮れ。息子と嫁が訪れ、いつもより少しにぎやかな1年の終わり。
おせちをこしらえていた台所で長男の嫁が、つぶやくように、小さな声で私に言った。
「みんな心配しています。
埼玉に来て、一緒に暮らしませんか」
少々驚いた。
夫が亡くなってから幾度も息子から同居の誘いを受けていたが、横で、ただうんうんと頷いていた嫁が、今私の前で、真剣な面持ちで、私を見ている。
私は老いたのか。
嫁の顔を見ながら、私はわたし自身に、そう問いかけた。
嫁の優しさが嬉しかった。
でも、自分の老いを認めるのが悲しかった。
怖かった。 虚しかった。
今まで生きてきて感じたことのない気持ちが
私の中に生まれて
私は、それに気づき戸惑った。
「ありがとう。心配してくれて嬉しいわ。
でも、私なら大丈夫よ。まだまだ1人でなんでもできるもの」
今までと同じ言葉で、長男に返す言葉と同じ言葉で、嫁に返事をした。
でも、渦巻く気持ちは今までとは違った。
わたしは老いたのだ。
老いとはなんだろうか。
老人と呼ばれる年齢に達したが、私はその問いに答えられる言葉を持っていない。
私も77歳になった。
私は、77歳になった。
老いを感じ、老いと向き合う。
その前に、老いるとは、なんなのだろうか。
夫は、答えを持っていたんだろうか。
こんなことなら、生きているうちに聞いておけばよかった。
仏壇の写真は、何も答えてくれない。
わたしは、これから、あと何年生きられるだろうか。
10年だろうか。20年だろうか。
それとも来年には、夫の元に行くのだろうか。
きっと、誰にもわからないだろう。
老いるとはなにか。
その答えも、きっと誰にもわからないのだろう。
だから、わたしは、考えてみようと思う。
きっと、ボケ防止にもなるだろう。
明日は、月に一度の女学院時代の同窓生との読書会がある。
私はお茶当番だから、美味しいお茶菓子を買って行かなければ。
今日も一日、元気に過ごせたことに感謝しよう。
明日も幸せな一日でありますように。
vol2へ続く