ナルシズム腹八分目のすすめ
公開日: 2011/01/12 思索
以前に『おれって(わたしって)サイテーでしょ」と言語化し、ときに記号化して自分の身にまとうという作業は、一見、「自身の価値を最底辺に置くことにしました」という意思表明のようであるけれど、結局その多くはコンビニエンスでインスタントな自己防衛機能に過ぎない』と書いた。
参照:「おれって(わたしって)サイテーでしょ」についての一考察
参照:「おれって(わたしって)サイテーでしょ」についての一考察
しかし、その前提条件としての
「おれって(わたしって)サイテーでしょ」と言語化される「最低な自分」と、言語化されない「最低な自分」の違いについて、考えることをせずには、「最低な自分」とは何を意味し、何のためにそれを得ていくのか、という疑問について、考えることができないのではと思う。
ということで、言語化されない「最低な自分」について、少し考えでみたい。
ここでは暫定的に、言語化されない「最低な自分」を
・時間の中に放り込む作業を経ても、吐き気のするシーンとして保存され続ける「自分」、
・それを得ることで、今の自分にはまだ価値がある、と思える、自己安定装置としての役割を果たす「自分」
・そして、時間軸の上で定点として存在し続けるもので、複数存在する可能性のあるもの。
と定義してみる。
リアルな関係性の中では、最低な自分は決して語られる(言語化される)ことはない。他者に対して開示されることはない。
過去の数多のシーンから、やっと見つけた吐き気のするシーンとして保存される最低な自分はそう簡単に代替されるものではないがゆえに、他者に開示した瞬間に、それは自分だけの檻で飼い続けることができなくなり、無意味と化す。他者に開示することは、自己安定装置を捨てることに等しい。
吐き気のするシーンとして保存される最低な自分を得ることで、今の自分にはまだ価値がある、と思える。しかし、吐き気のするシーンとして保存される最低な自分は、その性質ゆえ、自己安定装置として最低限の機能しか有しておらず、主に牙を向く要素をも有する諸刃の剣でもある。使いどころが悪ければ、主の手に余る獣に喉をかっ切られて死ぬ。
あくまで、自分が存在しているこの世界が自分を価値あるものとして承認してくれる、という、自分をリアルに繋ぎ止めるための最終兵器的なものとして、最低な自分は存在し続けなければならない。
あたし病んでるんだよね、とか、あたし、サイテーでしょ?というように自分に記号を付する作業や、意図的にインモラルな行為に走ることで自分の価値を貶める作業は、あくまでインスタントに、吐き気のするシーンとして保存される最低な自分を得たいがための行為であるけれども、他者に対して開示した瞬間に、最低な自分を得ることは未来の時間軸の先に委ねられることになり、いま、ここで、得ることはできなくなる。
吐き気のするシーンとして保存される最低な自分は、意図して未来に求めるものではなく、過去の経験という獣から、要素を探し出し、再構築することで得られる。いわば語り直しではなく、創造的な作業を必要とするものであるわけで。
しかし、吐き気のするシーンとして保存される最低な自分を得ていこうとする際に行われる創造的な作業において、他者への開示は禁じ手となるわけであって、他者への開示という美味い餌を獣に食わせた瞬間、その獣からは、吐き気のするシーンとして保存される最低な自分は得ることができなくなる。
開示した瞬間に、隙間が生じ、吐き気のするシーンとして保存される最低な自分を得ていく過程に、他者という外部からの価値判断の侵入を許すことになってしまう。そうすると、そこで創られる吐き気のするシーンとして保存される最低な自分は、空気感染をした、ミクスチャされた、わたしとあなたとの合作としての、吐き気のするシーンとして保存される最低な自分→最低なわたし、になってしまう。そこに関係性という新たな軸が生じてしまうことになる。
時間軸の上で存在する最低な自分が、他者という関係性軸を得て、わたし、になってしまったら、吐き気のするシーンとして保存される最低な自分は、関係性の中で生きること(わたし、となること)を余儀なくされる。時間と関係性の二つの可変軸の中では、常に一定に存在し続ける、最低な自分という解を見つけるのは難しい。
そう考えると、吐き気のするシーンとして保存される最低な自分を得ていくという作業は孤独以外の何ものでもないのではないか、と思えてくる。
自己安定装置として、何も持ち得ない人間は、吐き気のするシーンとして保存される最低な自分を、リアルに自分を繋ぎ止めるために得ていかなければならない。しかし、そこには他者への開示が許されない。
リアルに自分を繋ぎ止めるために他者(という関係性軸)が必要なはずが、リアルに自分を繋ぎ止めるための自己安定装置として、吐き気のするシーンとして保存される最低な自分を得ていくにプロセスに他者への開示は許されない。そのプロセスこそが孤独ではないか?
吐き気のするシーンとして保存される最低な自分を得ることで、今の自分にはまだ価値がある、と思える。そのシーンを想起することで、その愚かさ、醜さゆえに吐き気を抑えることのできない、できれば視界に入れたくない、捨て去りたい。
けれど、そんな、吐き気のするシーンとして保存される最低な自分を、時間軸の上で定点として有することで、現在進行形で世界からフレームアウトしそうな自分を現実に繋ぎ止めることができる。
そのプロセスは、いわば、ある種の解離とでも表することができるのかもしれない。
解離
dissociation
dis+sociation
連帯から脱連帯、脱社会へ
言語化されない「最低な自分」を得ていく作業は解離(連帯から脱連帯、脱社会へ)していくことであり、その先には真の孤独がある。そのことに本能的に気づいているからこそ、ポーズとしての、「おれって(わたしって)サイテーでしょ」という言語化される「最低な自分」を他者へ開示し、真の孤独から自分を遠ざけようとするのではないか。
言語化されない「最低な自分」を得ていく作業は、内向きで、かつ時間軸の上のみで行われる。言い換えれば、籠もらせて、解離させ、真の孤独へ向かわせるベクトルを有する。言語化されない「最低な自分」を得ようとする人は、それを視界に入れながら、自分が世界からフレームアウトしないギリギリの枠内で、ベクトルに抗いながら、真の孤独に足を踏み入れないようにバランスを取らざるを得なくなる。
世界からフレームアウトするか?真の孤独に足を踏み入れるか?
ぞの両端の間に、言語化されない「最低な自分」を得ていく作業=解離(連帯から脱連帯、脱社会へ)していく重力(ベクトル)が存在するのであれば、解離(連帯から脱連帯、脱社会へ)させようとする、その重力(ベクトル)に抗い、人は生きていくことになるのではないか、と。
真の孤独へ誘う、解離(連帯から脱連帯、脱社会へ)に向かわせようとする重力に抗うために、他者という、連帯へのキーパーソンが必要になる
しかし、他者と連帯することができなければ、言語化されない「最低な自分」を得ていく作業の先にある、世界から自分をフレームアウトさせないための最終兵器としての真の孤独へ向かうことになる。
「世界からフレームアウトするか?」
(自分がいない世界の存在を許すか)
「真の孤独へ足を踏み入れるか?」
(解離せよ。脱連帯、脱社会せよ)
「その両端の間に存在していたいのなら、真の孤独へ誘う、解離(連帯から脱連帯、脱社会へ)に向かわせようとする重力に抗えよ!」
「それには、独りじゃムリだろ?」
「だから、お前以外の【誰か】が必要になるんだ。」
という言葉たちに対し、
言語化されない「最低な自分」を得ていく作業が、真の孤独へ向かうプロセスとしての解離(連帯から脱連帯、脱社会へ)を意味するのだとしたら、
『黙れ!そのベクトルを知ることにより、独りで、真の孤独へ向かう重力に抗うことができるんだ‼』
と叫びたいがために、言語化されない「最低な自分」は存在し、人はそれを得ていこうとするのではないか、と思うわけで。
重力に抗うことをせず、真の孤独へ足を踏み入れるか。
重力に独りで抗い(他者との連帯ではなく、最低な自分を得て、重力への抗い方を知ることで)、独りで、世界からのフレームアウトと、真の孤独へのあいだに、踏みとどまるか。
沈黙しようが、叫ぼうが、どちらにしても、孤独の証明に違いはない。
だから、とりあえず、ナルシズム腹八分目くらいで、
「おれって(わたしって)サイテーでしょ」(遠い目)
とか言っちゃえるくらいが、チョー健全で、チョー他人ウェルカム!
て思ってればいいのかなと個人的には思うのです。