「おれって(わたしって)サイテーでしょ」についての一考察
公開日: 2010/10/13 思索
前々から、「おれって(わたしって)サイテーでしょ」と言葉にする人たちについてうだうだと考えていたことがあるので簡単にまとめておきたい。「おれって(わたしって)サイテーでしょ」と言語化し、ときに記号化して自分の身にまとうという作業は、一見、「自身の価値を最底辺に置くことにしました」という意思表明ではあるけれど、その意味するところは大きく3つに分けられるような気がする。
①コンビニ防衛スタイルとしての「おれって(わたしって)サイテーでしょ」
これが一番世にあふれているような気がする。
この場合「おれって(わたしって)サイテーでしょ」というのは「ぼくは(わたしは)傷つきたくないの!」とほぼ同義であって、自分が本当に自分のことを「最低」だと思っている人間は、そもそも他者に対してリアルタイムで言語化することはしない(そんな余裕はない)
そんなことを口にせずとも、最低な自分の吐き気のする空気にやられてしまっているから。
「おれって(わたしって)サイテーでしょ」と口にし、自身の価値を貶めようとするのは、他者からの評価を先回りして、シャットアウトするという、非常にお手軽な防衛スタイルとして機能している。
「お前ってサイテーじゃん」と言われたとしても、「おれって(わたしって)サイテーでしょ」と口にし先回り、先制攻撃をくらわせておくことで、「うるせー!そんなことは自分が一番よく知っている!」と防衛線を張れるわけで。ということを考えると、自身の価値を「サイテー、サイアク化する」ことは、傷つきたくない人たちの簡単でお手軽なコンビニ防衛スタイルのように思えるのです。
②他者との差別化を図るための記号としての「おれって(わたしって)サイテーでしょ」
これは一番悲しいと個人的には思います。様々な物差しをもってしても、自分と他者を差別化できず、インモラルな行為に手を染めたりすることで、なんとか自身を保とうとする際に語られる「おれって(わたしって)サイテーでしょ」という言葉は「おれって(わたしって)サイテーで、最高でしょ?」というように読み替えられるのだと思います。
自身で、インモラルな行為に手を染めることでしか自分と他者を差別化する要因を見いだせないことに、悲しさとかやりきれなさとかを感じながらも、でも、自分を認めてあげるために、「他者との差別化」を図る必要があるということが半ばカラダに刷り込まれてしまっているのだとしたら、そのときに語られる「おれって(わたしって)サイテーでしょ」=「おれって(わたしって)サイテーで、最高でしょ?」という図式は簡単に変えることが出来るものではないと思うのです。
③悲劇のヒーロー・ヒロインシンドロームとしての「おれって(わたしって)サイテーでしょ」
これ、結構多くないですか?ちなみに若かりし頃の僕はこれに当てはまります。
②に近い、アクセサリー感覚で身にまとう冗談交じりの「おれって(わたしって)サイテーでしょ」については考察から外します。
そもそも、「おれって(わたしって)サイテーでしょ」というのは結構あいまいな問いであって、そもそも、「キミ(アナタ)の何がサイテーなのか?」という行為を限定する問いを返すこともできるだろうし、サイテーかそうでないかは、受け手が判断することであって、「おれって(わたしって)サイテーでしょ」という問いがなされること自体が、問いを発する側が「サイテー」の定義と意味づけを完了した上で、「問うている」ことに他ならないと思うのです。
なので、リアルタイムに起きている行為について、その矛先となる人に語られる「おれって(わたしって)サイテーでしょ」に対しては、「よしよし。ぼくは(わたしは)アナタのことを頑張ってわかろうとするから」みたいな態度表明をしながら、「傷つけないようにそっと見守る程度」が正しい処方箋じゃないかなと思うのです。
自分の行為や存在に、自己否定したくなるくらいの嫌悪感、絶望感を抱いていたとしたら、リアルタイムに「おれって(わたしって)サイテーでしょ」なんていうふうに他者に問うことなんて無理だと思うんです。
過去の記憶として語られる「あのときのぼく(わたし)ってサイテーだったよね」という言葉であれば、時間の流れの中で、自分の行為や存在について何らかの枠組み(価値)を採用し、その枠組みの中で語っているわけだからまだわかる。
でも、リアルタイムで、「おれって(わたしって)サイテーでしょ」と語れること自体、「考える余裕」があるってことの証明だと思うんですよね。
自分の行為の意味を考え、行為が及ぼす影響に気づき、その矛先となった他者について考える(イメージする)というプロセスを経て、はじめて、「自分の行為がサイテーだと定義できるかどうか」の判断に入れるわけであると思うので、行為と「サイテーと定義すること」には結構なタイムラグがあるのだと思うのです。
リアルタイムでは口にする余裕もない。
自分がサイテーすぎるという毒気にやられてもだえ苦しむことになるから。
「おれって(わたしって)サイテーでしょ」と誰かから問われたら、「何がどんなふうにサイテーなの?」と聞いてさしあげれば、どのタイプの「おれって(わたしって)サイテーでしょ」かが、ぼんやりとわかると思うので、無責任に問うてみると楽しいかなと思います。
あーくだらないことを書いてすっきりした。
さ、寝ます。
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