自分が生きてきた時間を、薄くスライスして、社会のどこかにあるであろう貢献できる隙間に差し込んでいく

公開日: 2015/07/31 思索 私事


今夜は約10年ぶりくらいに、不特定多数の方に対して自分の闘病経験をお話する機会をいただきました。


今日、とても久しぶりに言葉にしてみて、「押入れの中にあった数年間使っていない布団を引っ張り出し、ホコリをポンポンと叩いて、丁寧に畳に敷く」そんなイメージを想起しました。
10年前の自分には、自分のアイデンティティを再構築するために、貪るように言葉を探し、言葉たちを組み合わせ、編み合わせ、過去の「言葉にならなかった時間」を言葉で埋め合わせていく、という作業が必要でした。
それは、ある種、「渇き」に似た、そのようなものだったように思います。
言葉にしても言葉にしても、渇き続け、自我が、言葉を求める。
今の自分にとっては、「闘病経験を語ること」に対する切迫した渇きは、ほとんどなく(少なくとも今日現在においては)ですが、だからこそ、私が、貢献できる隙間のようなものが新しく生み出されたのだろうとも感じました。


それは、ソーシャルワーカーという職業を選び、医療機関に入職してから、当事者としての言葉を完全に封した、という自分に課した8年間の制約が思わぬ、副産物を生み出したかのような感を得ています。

自分が生きてきた時間を、薄くスライスして、社会のどこかにあるであろう貢献できる隙間に差し込んでいく。私は自分の経験を言語化することでスライスし、同時に日々を言語化することで自分がみることのできる世界の解像度をあげ、スライスした自分の生きてきた時間(から得たもの)を差し込むことを選び続けていくのだろうな、と。その循環の中に身を投じることができたことは、よかったのだと今は思っています。

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