ソーシャルワーカーが自己覚知を行うために必要なたったひとつのこと

公開日: 2014/07/01 SCA 思索 自己覚知



ソーシャルワーカーが自己覚知を行うために必要なこととは、自分の内面に対してどれほどの想像力を向けることができるかどうかであると思っている。

ふと、「なぜ、自分が、このようなことをやるようになったのか(SCAを立ち上げたのか?)」という意味を今一度考えてみた。


自分には、”ものごとを深めていくと同時に、そのものごとの対角線の先にあるものを見よ、考える”という信条というか、人間としてのクセがある。


これは、自分の思考などの特性やクセに気づいたときに、その対極をいく概念について考え、その概念を頭の中に置いておいてあげる、というもの。そうすることで、想像力の幅は強制的に拡張する。



現場に出た頃は、「対クライエントとの関係性をどう築くか」という問いと対峙していた。

・人と向き合うことってなんだろうと迷いに迷った1年目。
・クライエントと出会えば出会う程新しい気づきに溢れた2年目。


気づきが溢れる日々は、楽しささえ覚えたけれど、同時にクライエントと援助者という二者関係に「閉じていく」ことに漠然とした恐怖を覚えた。

援助者とクライエント間だけで共有された時間を、クライエントに対する利益を最大化するためにはどうするべきかを考え、脱・面接室を掲げ、他職種のプレイヤーの力を借りるために、チームメンバーへのアプローチ方法を考えまくってトライしまくった3年目-4年目。

”同じ組織”という共通項で何度か共有できていた前提条件が通用しにくい、地域の関係機関のプレイヤーに対してどう働きかけ、クライエントを支えるチームメンバーを結成するために、各メンバーにどのように働きかけジョインしてもらうか、ということを考えていた5年目。


対クライエントとの援助関係”のみ”に閉じ、援助者としてのもちものが増えていくことに援助者としての満足のようなものを一ミリでも覚えているという自覚があった瞬間、対極に「開いていかないといけない」と思うようになった。

そうして対極に振れていった結果、「ソーシャルアクション」つまりは、クライエント・援助者という二者関係を生み出している大元である社会システムのエラー・不備に目を向けていくようになった6年目以降。

このころ、自分で小さな場をつくってなにかをやるようになった。
手探りでやりつつ、現場で稼働しながら1年間を過ごし、SCAを立ち上げた7年目。


7年もかかってしまったという気持ちもありつつ、
でも8年は必要な時間だったのかもしれないとも思う。


私は元来、いち個人として社会構成主義を採用してきた故、現場でもナラティブ・アプローチを補助的に用いながら、問題解決型アプローチを採用し、クライエントと共に整理した問題を、ブリーフセラピー的な手法で解決・軽減できるように支えていくという援助スタイルをとっていた。

けれども、上記の援助スタイルは、私個人がバックボーンとして社会構成主義を採用している上にナラティブ・アプローチを補助的に使う(かぶせる)ということ自体が、どうしても、援助者とクライエントという二者関係に閉じ、クライエントの言葉の意味を必要以上に探ったり、言葉の意味付けを過大評価したり、援助者である自分の期待するストーリーをクライエントに無意識下で求めてしまう、というような傾向とリスクがあるという自覚があった。


でも、だからこそ、結果として”ものごとを深めていくと同時に、そのものごとの対角線の先にあるものを見よ、考えよ”という信条が、強制的に社会のシステムエラーに目を向けさせるように仕組んでくれたのだと思う。

「なぜ、ソーシャルワーカーは生活上の困りごとを有しているクライエントの傍でその声を聞いているのに、なぜ、その背後にある社会の不条理さに気づき、それを変えていくような行動を起こすことができないのか?」


という問いは2年目からぼんやりと生まれていた。これは、2年目が、「クライエントと出会えば出会う程新しい気づきに溢れていた時間」であったことに起因する。


でもそもそも、”ものごとを深めていくと同時に、そのものごとの対角線の先にあるものを見よ、考えよ”という思考のクセは、子どもの頃に大きな病気をした際、「自身の病状がいい方に向かったかと思うと、急降下し絶望する」ということを経て、

『「いいぞ、いいぞ!」と思った瞬間に、「ヤバい!」と思い、その期待を一瞬でぶっ潰して、最悪の想像を(括弧)に入れておく』という心理的防衛機能を何度も何度も働かせてきた結果なのだと思う。


そういったあまりたのしくもなかった時代に、カラダが覚えた習性が、今このときになって、これからの人生を生きていく上でなにかしらプラスに働くのだから、やはり、「意味は言葉で書き換えられていく」という社会構成主義を採用することになったことは、自分にとってよかったことなんだろうな、と思う。


人は些細なことで変わるきっかけをえて、ときに個人的なエピソードが、社会という大きな文脈に接続し、その接続感を“使命(Calling)”だと感じ、個人のエピソードが社会という大きな文脈を引っ張っていく程のエネルギーをもつことになる、ということがあるのかもしれない。いや、そうなのだ、と思う。


ソーシャルワーカーが自己覚知を行うために必要なこととは、自分の内面に対してどれほどの想像力を向けることができるかどうかであると思っている。


そしてそれは、常に自分自身が目の前の現実に試されるということでもあると考えている。




【参考エントリ:自己覚知論】 
自己覚知に関する個人的見解
自己覚知論:「経験」を自身の屋台骨に昇華させるために
自己覚知論:「対角線にある思考・価値観」を視界に入れておくことの意味について考える
自己覚知論:援助者としての「自由な振る舞い」について考える
自分を知るということ(自己覚知)から自己活用へ
「まずはクライエントの不利益にならない」という自覚をもつことについて考える(2012.12.14)
ソーシャルワークにおける援助者の怒りの感情について考える(2012.12.18)
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