ソーシャルワークにおける純度の高い言語化とは?-「ケースワークの原則」から考える-

公開日: 2012/01/30 MSW SW解体新書制作委員会 思索

私はこのブログの中で「純度の高い言語化」という言葉を多用しています。当ブログでのエントリは私個人の思考実験でもあるのですが、それと共に、私個人が現場から得た知見を多くの方と共有するための場として考えています。と、おこがましい考えですが(笑

ということで、本エントリでは「純度の高い言語化」について、私個人の考えを記していきたいと思います。


1.純度の高い言語化とは?


個別のケースを引き合いに出し、「あのときはこうだったから、結論としてこうだというように導かれる知見」ではなく、「あのときこうだったから、結論としてこうだという知見」を積み重ねることで、多くのケースにおいて重なり合い、可能な限り一般化できる知見を言語化することを、「純度の高い言語化」と定義しています。


私がこのブログで、個別のケースについて語ることをしないのは、それが職業倫理に反するからということでも当然あるのですが、それ以上にこのブログで発信をすることを「純度の高い言語化」をするためのトレーニングの場であると考えているからです。

私は、上記定義に基づいた、純度の高い言語化を続けていくことで、それが自身の職業的価値観として根付いていくことに繋がるのだと信じて疑いません。


根付いた職業的価値をベースとして、自分自身のバランスを保つことにより、患者さん家族の迷いを前にして、援助者である自分も意図的に揺れることができたり、軸足を職業的価値に置きながら、もう片方の足で多種多様なアプローチを試みることができるようになるのだと思っています。




2.職業的価値観を有することは、援助者として迷子にならないために必要なこと。


自分の援助者としての価値観が根付いていないと、自分の実践の軸足をどこに置けば良いかということに迷ってしまいます。

つまりは、援助者として迷子にならないために、自分が職業人としてどのような価値観を有して、患者さん家族と向き合っている、向き合っていくのかということへの自覚が必要だと思っています。(これは一種の自己覚知ですね。)
参照:自己覚知における個人的見解 自己覚知論:経験を自身の屋台骨に昇華させるために


言語化の純度を高めていくと、感情が排除された、平易な言葉しか残らないのでは、という結論に落ち着くことがあります。

援助者の、もしくは患者さん家族の感情をどう取り扱うか、ということは、感情労働者でもあるソーシャルワーカーにとって、日々の現場で考えざるをえないことであると思います。


ですが、多くのケースにおいて重なり合い、可能な限り一般化できる知見を言語化する、という「純度の高い言語化」を目指したとき、感情をそこに組み入れていくことはなかなか難しいことであると感じています。


現場で患者さん家族と関わる上で援助者が感じる感情、相手から読み取る感情は、多くの意味を含む重要な要素なので、無視することができません。ですが、


個別のケースを引き合いに出して、あのときはこうだったから、結論としてこうだ、というように導かれる知見ではなく、「あのときこうだったから、結論としてこうだ」を積み重ねることで、多くのケースにおいて重なり合い、可能な限り一般化できる知見を言語化することを、「純度の高い言語化」と定義する。


としたとき、 純度の高い言語化を為す上で、感情という要素は障害になり得るのではないかと私は考えています。可能な限り一般化できる知見を言語化することを、「純度の高い言語化」とするのであれば、感情を出来うる限り、より普遍的なものとして変容させる必要があるのだと思うのです。


3.日々の実践で得られる感情は援助者に何を生むのか?


その上で、誤解を恐れずに言えば、「援助者が対象者から得る感情的な要素」は、援助者を精神的に満たしたり、充足感を与えたりするものであることは明らかだと思います。
言い換えれば、援助者の心と身体にリンクするアドレナリンを分泌させるような麻薬的な意味合いもあるのだと思うのです。


それは、援助者自身のモチベーションを高めたり、援助者と患者さん家族の間の関係性構築のプロセスの一助となったり、よい部分もとても多いのですが、それをそのまま、他者と共有しようとしても、「個別のケースを引き合いに出して、あのときはこうだったから、結論としてこうだ、というように導かれる知見」から脱することはできないのだと思うのです。


以下、F・Pバイスティック著:『ケースワークの原則』からの一文を抜粋します。




この本を出版する目的は、ケースワークにおける援助関係を全体として、あるいは分解して、説明し、定義し、そして分析することである。ただしこの作業には、多くの危険がともなうことも自覚しておく必要がある。たとえば、いかなる関係も現実の生活のなかで営まれており、それぞれに異なる個別性をもっている。 
本書のこれ以降で行う議論では、援助関係が固有にもっている重要な要素、あるいは援助関係に共通する要素を重視するためには、関係のもつこのような個別性をいくらか軽視することになる。また、援助関係は生命をもって生き、鼓動しているために、それを分解して理解しようとするとき、かえって本来の姿を傷つけてしまう危険もある。つまり概念を分解したり、あるいは集合体として存在している種々の要素のなかから特定の要素だけを選び出して研究することは、大切なものを見失うおそれもともなっている。
(序文:P4より抜粋)


バイスティックは、上記のように、知見を一般化していく過程に潜む危険性を指摘し、その上で、導きだした7つの原則は、数十年経った今でも色あせることはありません。


個々のソーシャルワーカーたち全てが、バイスティックのような普遍的なものを導きだすことは難しいにしても、その努力を怠るべきではないと私は思っています。

個別ケースから得られる「あのときはこうだったから、結論としてこうだ、というように導かれる知見」を援助者自身の中で、分類して、この知見はここに分類されるだろう、という類型化を試み続けることにより、

あのときはこうだったから、結論としてこうだ、というように導かれる知見」を感情レベルでの満足感、充足感に収束させてしまうのではなくて、

多くのケースにおいて重なり合い、可能な限り一般化できる知見を言語化する「純度の高い言語化」が成され、それによって援助者自身の職業的価値観が形成されていくのだと私は考えています。

それが、私が考える「純度の高い言語化」を求め、為していくことの意味です。


惰性で仕事を続けていくと、純度の高い言語化からは遠ざかります。

私は、自分が強い意志を持ち続けることができない人間だと自覚しています。
その理解の上で、自分の枠組みを強制的に拡張させるには、異なるコミュニティに属することが一番手っ取り早い荒療治なのだという結論に今現在は至っています。

職業的負荷の高い職場に移ろうと思ったのも、そんな個人的な弱さから来るものだったのかもしれないな、ということも職場を移り10ヶ月が経った今だからこそ思えることなのかもしれません。





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