ソーシャルワークを比喩的表現を用いて表現する理由
短いセンテンスで医療ソーシャルワーカーの仕事のおもしろさを述べよ、と言われたら「病気にならないことがもちろん一番いい。でも、病気になってしまっても、病気によって、その人の人生における可能性や選択肢が少しでも失われないように、そして、新たな選択肢を得るためのパワーを取り戻せるようにお手伝いをする。そこがこの仕事のおもしろいところだと思うのです。」
と今の自分は答えるのだと思います。
4年くらい前にこのブログをはじめて、自分の気づきを記し続けてきました。
月に数回エントリを記すようになったのは、ここ1年半くらいです。それは、経験を重ねていく上でアウトプットしたいこと、できることが増えてきたからなのだと思っています。
私は、このブログでよく比喩的表現を多用します。そのことを意味について考えてみたのですが、今現在の結論としては、
比喩的表現を用いて表する意味というのは「ソーシャルワークを自身の既存のフレームの外から眺めること」にあるのだと、思っています。
「自身の既存のフレームの外から眺める」ためには、ある種の「論理の破綻」が必要になるのだと思います。その方法の一つに「比喩的表現」を用いるのだなと最近気づいたのです。
私は、「大切なことに気づいた!」という既存のフレーム(職業的価値)を脱ぎ捨てる勇気を持たないと、いつまでたっても古臭い皮から脱皮できないのでは、という危機感をいつも抱いています。なので、そこに比喩的表現を用いて「論理の破綻」を意図的に起こすことで、「自身の既存のフレーム(職業的価値)」の外に出て、そのもの自体の全体像を眺めようとしているのだと思っています。
例えば、患者さん家族との面接の中で扱われる事象を「ふろしきの中身」に喩えてみます。ふろしきを開けたがらない人。ふろしきが開けっ放しになっている人。ふろしきの結び目をきちっと閉めている人。患者さん家族に最初に会うときにそんなイメージをするのです。
「ふろしきの中身」を面接の中で一緒に見せてもらう。
まず風呂敷包みを一緒に開いて、そこにあるものを並べていく。並べていってもらう過程で、そのモノゴトに対するエピソード、想いが一緒についてくる。 風呂敷の中身をエピソード聞きながら並べていってもらう過程に「受容」「共感」が織り混ざります。
「ふろしきの中身」が「それなりに」出そろった後、「さて、このモノゴトのどれを、まず、どうしていこうか」という患者さん家族とソーシャルワーカーの間に「共通の問い」が現れる。この「共通の問い」を共有することこそが、援助関係のスタートなのだと思うのです。
そして、ふろしきの中身である様々なモノゴトの「重み」こそが、その人自身が持つ価値観を図るための「とっても大切な指標」になる。「重みに付する価値観」を知るには、ふろしきの中身を並べてもらう際のエピソードがなによりのヒントになる。
ざっとですが、そんな風に比喩的表現を用いて話をすることがあります。
論理の破綻をさせながら、自分のフレームの外に出て、既存のフレームの中身を眺めてみる。そういった行為が定期的に自分自身のソーシャルワークに対する価値観を図り直す際に必要なのだと5年目の今は思っています。
さて、10年目には上記について、自分はどのような考えを述べるのか。
それはこれからの5年の時間の積み重ね方によるのかな、と思っています。
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