居場所クライシス
NHKで9月からシリーズ放送されている「ミドルエイジクライシス 30代ひずみ世代の今」「ワーキングプア」にはじまり、「無縁社会」、そして「ミドルエイジクライシス」NHK発の現代を読み解くためのキーワードたち。
そういった社会の不条理さを表すキーワードたちを、現場のソーシャルワーカーたちは自身の言葉でどのように定義づけているのか。個人だけを見ているだけでは、構造的に物事を捉えることはできないと思うのです。
社会が個人に要請・強制する価値観は日々移り変わっていく。だとしたら、とある時点で得ることができている『社会が個人に要請・強制する価値観についての「理解」』はそこで立ち止まっている限りは日々、古くなり、劣化していくのだと思います。だからこそ、『社会が個人に要請・強制する価値観についての「理解」』は日々アップデートしていかなければならないと思うのです。
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「不安定であることは、生きづらさに繋がる」という抽象的な一文を、様々な切り口から考えていきたいと、ある人との出会いをきっかけに思うようになりました。
衣食住が満たされているだけでは、人は本当の意味では満たされない。安定はしない。
「誰かのために、何かをしてあげられる自分がいる」
「与えてもらうばかりではなくて、与えてあげられる誰かがいる」
そんな想いを抱くことが出来た時、そこに自分の居場所があるんだ、と気づくことができる。
そう考えるとき、不安定と生きづらさの関係を紐解いていく際に、「居場所」というキーワードを考える必要があるのではと思っています。
ここでは暫定的な定義として「居場所」=「自分の存在を物理的、もしくは情緒的に安定化できる場所」とします。「不安定にならないために、自分を守ってくれる場所」としてもほぼ同義かもしれません。
『社会が個人に要請・強制する価値観についての「理解」』について考えるとき、個人が属する組織(家族、学校、会社etc)から、価値観を要請・強制され、ときにそれがあるからこそ個人は「自分の存在を安定化」できてきた、というのはよく考えてみれば理解できることではあると思います。
「家族のために」
「会社のために」
ですが、現代においては(家族、学校、会社)という「個人を安定化」させる価値観を要請・強制してきた組織がそこまでの力を持ちえずに「不安定化」しているのということを前提として考えるとき、個人が「自分の存在を安定化するために」、(家族、学校、会社)という組織に「居場所」を求めるということが、もしかしたら難しくなってきているのではないか。と思うのです。
「家族のために」
「会社のために」
一生懸命働いても、自分ひとりで生きていくのが精いっぱいな賃金では結婚という選択肢が考えにくい、そのとき、「家族のために」という昔の組織が与えてくれた「個人を安定化させる価値観」は消失する。
頑張っても正社員になれない。派遣切り。どんなに会社に報いても、「会社のために」という価値観が持ちづらくなっている。
家族、学校、会社は、多くの人たちにとって、ライフサイクルの中である一定期間属する組織であるわけで、もし、そういった組織に、「自分の存在を安定化するための居場所」を求めることができないとしたら、個人は、居場所となるなにかを勝ち得ていくしかなくなる(自分でアクセスし、ときに創出する)のではないか、と。
ある程度、おぜん立てされた、与えられていた組織に「自分の存在を安定化するための居場所」を得ることが出来ていた時代から、それさえも自分でアクセスし、創出していかなければならないかもしれないという時代に変わってきているのではないかと思うのです。
新自由主義が蔓延させた「自己決定・自己責任論」の先にあるのは、居場所のある社会か否か。
その問いに今の世を生きる人はどう答えるのだろう。
自分自身の力だけで、居場所を勝ち得ていくことは、言葉で言うほど簡単じゃない。今の自分に何が出来るだろうか。
「不安定であることは、生きづらさに繋がる」ということを考えたとき、
「(何が?)不安定であることは、生きづらさに繋がる」という(何が?)という問いを突き詰めていくために、「居場所のもつ意味」を具体的にしていきたいと思っています。
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