よわさの哲学
公開日: 2010/10/17 思索
「自分は弱い人間だ」と思うときの多くは、考えるべき何かを放棄する理由として「弱い」という言葉を使っているように思う。「おれ、(わたし)は弱いからダメなんだ。」
「おれ、(わたし)は弱いから、逃げたくなっちゃんだよね」
(ぼく(わたし)は弱いから、きっとむりだ、だめだ。)
自分がそう思うとき、誰かがそう口にするのを聞いた時、どんなふうに思うだろう。
ちょっと、「弱さ」について考えてみた。
①弱さが語られるときはどんなときか。
ここでいう「弱さ」は、自身の内面的な何かに対して語られるものとして採用される。
けれどもそれはあくまで「何か」であって、「弱さ」が具体的に何を意味することかということが具体的に語られることは少なく、自分が望まない少し先の未来を予測し、「自分が弱いから生じるかもしれない何か」を恐れ、それが実際に起こることで自分が傷つくのを避けようとする。というような文脈で言葉にされることが多いように思う。
「自分が弱いから生じるかもしれない何か」はおそらく一般的に
①実際に行動を起こすことで、失敗に終わる(傷つく)ことが予測できること。
②考え、向き合うことで、傷つくこと(気づきたくないことに気づいてしまう)が予想されること。
などのおおまかな定義を与えてやれるように思う。
②弱さを語る意味について
①について、極端な図式を用いれば
「自分が弱いから生じるかもしれない何か」=「自分の存在を脅かす何か」
とイコールで結ぶことができるのではないかと思う。
「弱いから」という定義不可能な尺度を採用することで、
「自分が弱いから生じているかもしれない何か」=「自分の存在を脅かす何か」という図式における「自分の存在を脅かす何か」からの退避を可能にしている。
つまりは、弱さを語るとき、そこには自分が傷きたくないという防衛機能が働いている。
弱さを、具体的に、詳細に、自分の中で定義するという行為自体が、自分という存在を破壊する行為となってしまうだろうから。だから、弱さを語るのに理由は要らない。弱さを語るのは「自分の存在を脅かす何か」があるからで、「弱さ」は「自分の存在を脅かす何か」をカモフラージュする装置として機能している。
③弱さとは何か
「おれ、(わたし)は弱いからダメなんだ。」
「おれ、(わたし)は弱いから、逃げたくなっちゃんだよね」
(ぼく(わたし)は弱いから、きっとむりだ、だめだ。)
弱さというのは、生きていく上での術(すべ)なのだと思う。
「自分の存在を脅かす何か」を「弱さ」という言葉でぼやかす。
だとしたら、「弱さ」はその人を守ってくれる何かとして語られてもいいんじゃないかと思う。
自ら能動的に身にまとう「弱さ」は自分を助けてくれる。
他者から与えてもらう受動的な「弱さ」もまた、自分を助けてくれる。
「わたし、○○がいないとダメなんだ。ひとりじゃなにもできないから」
そんな言葉が聞かれるとき、「いいんだよ。みんなそうじゃないか」って言ってくれる誰かが目の前にいるのだとしたら、きっと、その人自身も「弱さという優しさ」を知っている。
他者に依存するときに語られる「弱さ」は、与えられる「弱さ」であって、平易な言葉で言いかえれば、それは「優しさ」でもあるんじゃないかな、と。
弱さは曖昧なままでいい。
弱さは、曖昧だからいい。
「弱さ」と「優しさ」が一見よく似ていると思うのは、そんな理由があるからかもしれない。
弱さは、自分を守るための優しさ。与えてあげられる弱さは、その人を助けてあげられるかもしれない優しさ。
そんな風に思えれば、弱いということは別にどうってことないんだよ。
って笑って言えるし、言ってあげられるかもしれない。
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