演者と舞台としての「わたし」と「あなた」
人が言葉を発する時、その言葉ひとつひとつが「借り物の言葉」なのか「経験に基づく強烈な何かに裏打ちされた言葉」なのか。そんなことが気になることがよくある。語るということ。
「わたし」が自身のストーリーを語るということについて考えてみたい。
どのようなストーリーであっても、そこには語り手自身の「何かしらの期待や救い」を無意識下で引き寄せたいという思いが存在するのではないかと思う。
そして「何かしらの期待や救い」を得るためには、語り手の語りが、単なるその場限りで完結するのでなく、語り手の中に持ち物化される(価値化される)必要がある。
そして、そのためには語り手以外の存在(語られる側のあなた)が必要になるように思う。
ライフストーリーが語られる場を演劇に例えるのであれば、
「わたし」と「あなた」が「演者」と「舞台」として「語る側」「語られる側」としての役割を引き受けるとき、語り手の「期待や救い」を内包したストーリーが成り立つ。
「舞台」としての役割を引き受けるとき、そこには語り手(演者)をどう迎え入れ、どう魅せてあげるべきかという役割期待が生じる。
「演者のストーリーを共につくる」という意識が、否定、意見ではない「悪意の無いポジティブでサポーティブな作用を根底に持つ問いかけ・投げかけ・態度」を語り手(演者)へ返していく作業を引き受け、それを遂行する。
それに対して、語り手(演者)は自身のストーリーに対する「悪意の無いポジティブでサポーティブな作用を根底に持つ問いかけ・投げかけ・態度」を自身の体に戻していく(2つ以上の視点を得る)ことで、自身のストーリーに厚みを持たせ、持ち物化(価値化)することが可能になるのではないかと思う。
その過程で、持ち物化(価値化)されたストーリーは「誰に対して語る言葉であっても変わることなく表出可能な考え、想い」として語り手(演者)の中にストックされる。
語り手の中でストックされた持ち物化されたストーリーはある種の予定調和的な道筋を辿り、いつ、なんどきでも語られるようになる。
でも、「落ちどころは語り手にもわからない」
その時々に語られる「落ちどころ」は、持ち物化されたストーリーの「先」に存在する。言ってみれば「既知の領域の外にある」から、外に飛び出してみなければ、落ちてみなければ「わからない」
持ち物化されたストーリーを積み重ねることは、「既知の領域の外」に飛び出すための「助走距離」を伸ばすことにもなる。
持ち物化(価値化)する行為を成すことなしには「助走距離は伸びない」
「既知の領域の外」=「未知」
自身の中に存在しているけれど掴まえられない「未知」
「未知」に期待や救いを求め、人はストーリーを語る。
以下「知に働けば蔵が建つ」著:内田樹 より抜粋。
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「私がすでに知っていること」を人に伝えるのはあまり面白いことではない。まったく面白くないと申し上げてもいい。だってもう知っていることなのだから。私が知っていることは私にとってまったくインスパイアリングではない。だからそんな話ばかり「させられたら」私は退屈で死んでしまうであろう。私がわくわくするのは、自分がこれから何を話すかわからないような話をしているときである。
とりあえず話はすでに始まっており、舌はすらすらと回っており、二つ三つ先のセンテンスまではなんとなく「こんな感じ」ということが予見されている。けれども、どういうふうにフィニッシュが決まるのかは話している私自身にもまだわからない。そういう話をしているときがいちばんわくわくする。
いわば「私の中で他者が話しているのを聴く」というかたちでの発語である。なるほど。ということはいつも同じ話をしている人間はいずれ自分に飽きてしまうということですね?ところがそうでもない。現実にいつも同じことを飽きもせずに繰り返し言っている人間はそれこそ掃いて捨てるほどいる。
彼らにインタビューして、「毎日同じことばかり言っていて、よく飽きませんね」と聞いてみたまえ。びっくりされるぜ。彼らは飽きていないのである。
なぜか。彼らもやはり「自分の中で他者が話しているのを聴いている」からなのだ。
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非常に共感した文章でした。
内田樹氏が述べている
「私がわくわくするのは、自分がこれから何を話すかわからないような話をしているときである。とりあえず話はすでに始まっており、舌はすらすらと回っており、二つ三つ先のセンテンスまではなんとなく「こんな感じ」ということが予見されている。けれども、どういうふうにフィニッシュが決まるのかは話している私自身にもまだわからない。そういう話をしているときがいちばんわくわくする。」
これは言いかえれば、既知の領域の外で出会う「未知」に対する期待なんだと思う。
どんな落ちどころ、フィニッシュになるかがわからないから楽しくてわくわくする。予定調和的な持ち物化されたストーリーたちは、既知の領域の外に飛び出すための助走距離。だとしたら、「既知の領域」内をどの方向からどんなスピードで駆け抜けるか(助走するか)によって、どこに飛び出すかは「いつも違う」わけです。
そして、「語り手」としての「演者」が助走の後に踏み切る地面=「語られる側」としての「舞台」なのだと思うのです。
つまりは、先述した「語られる側」としての「舞台」的役割を引き受ける他者の存在が、「既知の領域の外=未知」に出会う際に非常に影響力のある因子になる。
舞台としての他者の存在が、語り手が「期待や救い」としてのストーリーを紡いでいくには必要なのだろう。
聴くこと。聴いてくれること。
ただそこに居てくれることだけでも、とても意味がある。
自身の中に存在しているけれど掴まえられない「未知」
「未知」に期待や救いを求め、人はストーリーを語る。
このことに気づいた時、語ることの持つ未来を切り開く力と、自身の語りに裏切られることの怖さ、という語るということの二つの側面が少しだけ見えてくるのです。
でも、だからこそ、言葉を大切に、語り、語られることができるようになるのかな、と。そんなことを思うのです。
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