言語教育とハイパーメリトクラシー
公開日: 2010/03/29 読書記録
高齢者虐待のケースがあったり、1年くらい関わりのあった患者さんが亡くなって、でも親族は誰もご遺体を引取る意思がなく、無縁社会のリアルを見たり、外傷で高次脳機能障害のある患者さんのことでをどうしようか困り果てたり…。毎晩送別会があったり…金曜日の事例検討会も無事終わり、疲れ果てたカラダで土曜出勤するもインテーク3件あったり…。体力のない自分には相当堪えた一週間でした…情けない…
昨夜はキャリア3年のMSWの方たちと飲み会。声掛けしたほとんどが参加してくれて、今後は2ヶ月に1回ペースで勉強会&飲み会をやろうということになった。忘年会は合宿をやろうという話になり…
おもしろそうな人に声かけたからおもしろくならないはずはなかったのだけど、予想以上におもしろくなりそうで、いい4年目を迎えられそうだなぁと。
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表記について・・・
NHKの「AtoZ」という番組で以前に「問われる日本人の言語力」という特集がされていた。その中でドイツの言語教育を取り上げていたのだけど、その内容について思うところを忘れないうちに記しておこうと思う。
ドイツでは国ぐるみで言語力教育に取り組んでいるとのことで小学校の授業のワンシーンが紹介されていた。内容は小学校低学年の子どもたちひとりひとりに「お題」が与えられ、そのお題について子どもたちが5分間のプレゼンテーションをクラス全員の前で行うというシンプルなもの。
例えば、「牧場」というワードについてプレゼンテーションをしていた女の子は、
「牧場には牛がいて、草が生えていて、牛は草を食べて、乳を出して、乳を乳製品にして、乳製品にミルクとかチーズとか色々な種類があって、牛は食肉にもなって、自分たちの食卓にもあがっている。だから牧場の草は自分たちにとっても大切で、自然は大切にしなければならない。」
みたいに連想ゲームみたいな感じでストーリを組み立てて話をしていくわけなんだけれど、このストーリーを組み立てていくには
牧場から連想されるワードを短時間でアウトプットし整理する。
アウトプットされたワードを組み込んだストーリーを作る
というふたつの作業が含まれている。
なんだ簡単なことじゃないか、と思うかもしれないけれど、小学生低学年のうちから上記のような思考の訓練を繰り返すことには大きな意味があると思う。
物事を伝えるということは
「自分が伝えたいことを伝えるためにどの言葉を使うかという選択。」
「選択した言葉を話の中にどのように組み入れ、話を構成していくか。」というプロセスを経るわけであって
簡単に言えば、物事を伝える≒そのためのショートストーリーを作る。
と表現することもできるように思う。
先述した女の子が「牧場」という言葉からいくつの言葉を連想できるか(生み出せるか)ということは、物事を伝える際に選択できる言葉を増やし、また、より適切な言葉を選び出そうとすることの訓練にもなるのだと思う。
漢字をいくら学んでも、形容詞をいくつ覚えても、言葉をどう使うのか≒自分で言葉を選び、その言葉を用いて「どのように物事を伝えるか」ということを考えて実践していかなければ言語力は向上しないのではと思う。
「物事を伝える」ということが、どのような枠組みの中で行われているかということを、簡単なエクササイズ・実践を通して自分のものとしていくことができるということは子どもたちの自己肯定感を高めることにも寄与するのかもしれない。
自分の考えも感情も「物事」に置き換えれば、それは上記のような教育を受けてきた彼らにとっては、エクササイズの先にある実践≒「自分の言葉で、自分の考え・思いについて述べる」ということであり、なんら特別なことではないのかもしれない。
上記に関連して記しておきたいのが、社会学者の本田由紀氏が『多元化する能力と日本社会』(NTT出版)
http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100001626
の中で提示した「ハイパーメリトクラシー」という概念。
著者は
『今までの日本社会は、学歴などをベースにしたメリトクラシー(業績主義)社会であり、学力を基本とする能力によって社会的評価がなされてきたけれども、単に学力だけでは、ますます複雑になる国際関係や社会環境をたくましく生き抜くための能力としては不十分であり、
社会が人間に求める能力は、学力から、それも含めた「ハイパーメリトクラシー=総合的人間力」へと急速に変化しつつある。』
というような論を展開している。
著者が言う「ハイパーメリトクラシー」という概念は「創造性」とか「コミュニケーション力」などという非常に曖昧で、統一の評価の物差しもなく、数値化して測れない概念を包括している。
「ハイパーメリトクラシー」という言葉を聞いたとき、就職活動をする学生へのキャリア支援においてよく耳にする
「コミュニケーション力を鍛える!」
「セルフプロモーション力を鍛える!」
「プレゼンテーション力を鍛える!」
というようなよくわからない文句を思い出した。
こういったキャッチコピー的な文句は、社会が求める「ハイパーメリトクラシー」とか「総合人間力」という概念から来るものであって、それは今まさに社会に出ていかんとする若者たちの「不安」と「希望」に対して怖いくらいに合致するのかもしれないと思う。
「自分が伝えたいことをどのような言葉を用いて、どのように話を組み立てて他者に伝えるか」というシンプルで基本的なところを伸ばしていける機会が子どもの成長過程において与えられるということがどれほど重要なことなのか、ということをきちんと考えてみたい。
日本の今の言語教育も、ドイツの文化も、学生の就職活動もよくわからないけれども、ドイツでは小学校低学年で与えられる教育機会が、なぜ日本では社会へ出ていく直前の大学生に対して、上記のような自己啓発として変容しビジネスモデルとして成立するのか。疑問で仕方ない。
自分たちの考え方や価値観のルーツを辿るには、どのような意図による教育が成されていたのか、ということを知ることがその一助となるのかもしれないと最近考えている。
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明日は代休…
ゆっくりしよう…
統計の勉強がしたいし…
整形外科のケースがMSW全介入となり、早期介入が在院日数短縮に繋がっているというデータが、昨年と比較して出ている(まだ3か月分だけれども)ので、そのデータを「どう見せるか」ということを思案中。
退院の阻害要因になる因子とクロスさせてとか・・・上司と相談して進めていく予定。
しっかりエビデンス出して院長に増員を求めよう…という密かな計画。
現実的に実現可能性が低くとも、アクションしていくことは必要だ。
さぁ頑張るぞ!!