価値観のテーブル

公開日: 2010/03/14 思索

「格差社会という不幸」(春秋社)読了。


「格差社会」という多領域から難癖付けて語ることができるようなキーワードについて、各分野の識者が対談形式で小トピックについて語っていくという上記著書の中で
『労働での自己実現、仕事での自己実現。こういった幻想から脱げ出すこと(脱自己実現化)により、「経済を回すために社会を犠牲にする」という日本の現実を変化させ「地域社会の厚み≒相互扶助的な包摂性を取り戻す」ことができる』という一節があった。本書の論点からはだいぶ逸れるのですが


労働での自己実現
仕事での自己実現


まさに自分はこういった世間様で今ハヤリの価値観を有する人間であると思うとともに、これは言い換えれば、職業的価値と、社会を構成する個人として持つ価値観の大部分が隣接し、影響を与え合うというような価値観のバランスを有していると言い換えることができるように思う。簡単に言えば価値観という円グラフをおおざっぱに二分したようなイメージ。


隣り合う価値観がよいリズムで共鳴しあうときは、最高に気持ちよく、それは中毒性さえも有するように感じ、浮遊しているような気分になる。何事もうまくいくような気がし、両者が不協和音を起こすとき、すべてから逃げ出したい衝動に駆られてもがき苦しむ。


波の降り幅は多くの要因によって変化する。人は苦しまないための安全装置として、価値観の分散をすることで対処しているように思う。例えば


仕事
趣味
家族
恋人
過去の経験

など。

「生きる意味」とかなんとか表現できそうな価値観の円グラフの項目を増やすことで、自身の価値を様々な対象に投影しながら、そこに映し出された自身の価値観を確認し安心し、自身を安定させ、外部化し視覚化した価値観同士がバランスを保ちながら共存することで、自分を保つことができるように思う。


僕の友人は僕と違い手先がとても器用で、自分の服を自作し、素人目ですが僕の目には既成品とも思えるほどのものを作るのですが、

「そんなに好きなら作ったりするのをちゃんと学んで仕事にしたらいいんのでは?」と聞くと

「好きなことを仕事にしちゃったら逃げられなくなるから怖いんだよ」
という言葉を口にします。


この言葉に僕はずいぶんと色々なことを考えさせられた時期があって、「服を作る」ということを、仕事にするか趣味とするかで、そこに付随する価値観の円グラフも変わってくる≒アンバランスさを生じる要因となるかもしれない。というふうにその友人は感じているのだと僕はそのとき理解したわけなのです。



投資信託のポートフォリオじゃないけれど、様々な対象に「生きる意味」である価値観を分散させることは、自身の存在への安定を脅かすリスクを分散させることと同義のように思えるわけで。極端な話、「生きる意味」という価値観がふたつやひとつにしか分散できなければ、どちらかの価値観を脅かすようなことがあると、他方の価値観にも影響を与え、途端にバランスが崩れる。


依存は「生きる意味」の円グラフをアンバランスにさせ、自身の存在を途端に不安定にさせるリスクが高くなる
仕事での自己実現幻想もまた、仕事で自己実現できなければ自己の存在意義さえも見失うかもしれない危険性をはらんでいるように思える。


労働での自己実現
仕事での自己実現


こういった価値観のバランスが、その人の中に内的な要因から形作られてきたのか、それとも外部要因によりなかば強制的に刷り込まされてきたものなのか、ということによっても、変わってくるとは思うけれど、社会構造の変化により、それが正しいかのように大量生産される「労働での自己実現」という価値観により、苦しんでいる人がいるのもまた事実のように思う。


世間様、という正体不明で不気味な価値観を突っぱねながら、うまく付き合いながら生きていく、適応していくことはときにとても息苦しい。人は自身を取り巻く様々な関係性に価値観を分散することで、自分を保ち、自分を守っているのだと思うわけです。


今日はそんな当たり前のことに気がつきました。

当たり前のように思われることも、自分の指でなぞる行為をしなければ「当たり前だよね」という抽象的なイメージから脱却できない。それはとてももったいないことで。


なぞり、イメージし、言語化することで自分の持ち物とする。
そういったことを大切にしたいものです。
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