プロフェッショナルとは?
公開日: 2010/01/26 MSW
知り合いのソーシャルワーカーがこの春で今の職場を辞めるということを仕事で電話をした際に聞いた。たぶん、もうこの業界には戻ってこないのだろうな、というような口ぶりにとても悲しくなった。学生時代のバイザーに実習最終日に言われた言葉がある。
「自分の生きていこうと思っている道のすぐ横には、違った生き方があるんだ、っていつも心に留めておきなさいよ。いろんな人生があっていつだってやり直せる。そのことを忘れないでね。」
その頃はその言葉の意図するところはよくわからなかったけれど、今になってその言葉の意味が少しわかる気がする。そして、その言葉に今まで何度も心を救われてきたことに気がつく。
仕事をしていてとても怖いと思うのは、なんというか、研修やらに行くと、その業界に埋没していく感覚とともに、なにやら自分たちが非常に高度な技術みたいなものを有していて、とてもすごいことをしているかのような錯覚に陥りそうになることが多々ある。とてつもない勘違いを起こしそうになる。
非常にくだらない。
社名などの肩書が無くても、地位も名誉もお金も無くても、自分をひとりの人間として尊重して付き合ってくれる人たちのいる人生はきっととても豊かなものなのだと思う。
そのことを文字面だけでなく、本当の意味で理解できたとき、それはソーシャルワーカーとして生きていく上でもとても大きな財産になるのだろうなぁと思う。
今まで出会ってきたソーシャルワーカーの多くは、自分の実践を叙情詩的に語るスキルに長けている人はとても多かった(自分もその域から脱せられてはいないけれど)
そういう人の言葉は感情には訴えかけてはくるけれど、それ以上のなにものにもなり得ず、言葉を伝承可能なスキルにまで昇華することができない。ただのストーリーテラー(お話の上手い人)で終わってしまう。そのことに対する危機感さえ抱かずに。
グダグダと自分のケースのときはどうだったああだったとお話の長い人が典型的なソレだ。
理想は「自身の実践を対象となる人に合わせた言葉で伝えることができること」それはシンプル過ぎてとても難しい。
自分の実践が言語化できる、ということに加え、対象となるソーシャルワーカーのスキルをアセスメントし、それに合わせた言葉、やり方で伝える、ということを成すことができて初めて、プロフェッショナルなのだと常々思う。
大学時代のゼミの恩師は、「災害、犯罪被害者、児童、地域、小児など」の異なるテーマを持つゼミ生たちに対し、どんな領域のことであっても、言葉を詰まらせることなく、ゼミ生に考えるヒントを与えてくれた。「わたしはこう思う」という言葉を一切使わずに、相手の言葉を引き出しながら、ヒントに導いてくれた。
これは言い換えれば、異なる問題を抱えるクライエントに対し、自身の価値を押しつけることなく、相手の言葉を引き出しながら、一緒に解決までの道のりを描いていく、ということでもある。
日本、世界を飛び回り、お偉いさんとの会議よりも、小さな町から頼まれた研修会を優先するという「生涯現場主義」を貫く、来年75歳になる恩師に、学生時代にひとつの質問をしたことがある。
「どこからそんなパワーが出てくるんですか」と。
返ってきた言葉は「楽しいから」の一言。
結局はそういうところに行きつくんだと思う。
シンプルで気持ちよく自分の人生を生きていくために、必要なモノ。
それが仕事であるならば、それはとても幸せなことなんだろうな。
「自分の生きていこうと思っている道のすぐ横には、違った生き方があるんだ、っていつも心に留めておきなさいよ。いろんな人生があっていつだってやり直せる。そのことを忘れないでね。」
「楽しいから」
学生時代に出会った2人の恩師の言葉を思い出すと心が軽くなる。
恋愛したり、友達と遊んだり、いろんなテーマについて熱く議論したり、海外旅行行ったり、本読んだり、自分の仕事以外のことを学んだりっていうことを興味の向くままに全力で楽しんでやりながら、自分の前にある実践の振り返りを日々やりつつ、たまに研修に出て、おもしろそうな同業者に声かけて、とりあえず飲みにいこうぜ、っていうふうなスタンスでこれからもやっていけばいいのかなと思ってます。
それなりにパワーもついて、おもしろいヤツが周りに多くなればなるほど、きっとこの先の仕事はおもしろくなるんだろうな、と。
そんなこんなな2010年。
今年も1年、自分の嗅覚を信じてやってみようと思ってます。
1月も半ばになりましたが、今年もどーぞよろしくお願いします。