関係性って?
公開日: 2009/06/08 MSW
「この人の内部で現在なにが起こりつつあり、この人の生活空間でなにが生じているのか」という疑問にかなり詳しく答えられれば、援助者は自分の認知能力の全体を活用して聞いていることになる。上記「高齢者援助における相談面接の理論と実際 渡部律子著」より抜粋。
新たに何かが生じるという時、そこには関係性の摩擦が起きている。人と人(モノ)を繋ぎ合わせる接点となるのは関係性であって、関係性を軽視して、「結果」を急いだり、関係性の輪郭を教えてもらう作業を怠ると、ときに接点はほころんでしまう。
患者さんと家族。
患者さん家族とサービス提供者
様々な関係性の中で繋がる人と人(モノ)
接点の作り方は一つではない。「繋がる」という現象だけを見れば結果はひとつのようだけれども、接点である関係性の理解の仕方、活用の仕方によって、作り方、再構築の仕方は多様性を持つ。
仕事をしていく上で、接点としての関係性が持つ意味の重要性を、体感しながら理解しようとする課程をきちんと経れるようになってきた気がする。
とりあえず、サービスに繋がなくては、等の結果を急ぐその前に、そこに存在する関係性、今後生じるであろう関係性にもきちんと目を向けなければならないと実感。関係性を理解しようとすることは、多様性をもったアプローチをする上で欠かせない作業のように思う。
「理解が悪い家族」等々。ラベリングすることは簡単だ。でも、一度ラベリングしたイメージから抜け出すことは簡単ではない。いつだって「こうだ」と決めつけることは、良くも悪くも援助者側の都合で行われる。援助者側がラベリングをし、何らかの意味づけをすれば、その意味付けに沿った対応が可能になる。それは必ずしも悪いことではないけれど、ラベリングの枠からはみ出した事実は無いものとみなされてしまう可能性が高い。
そしてまた、ラベリングを根拠とする「よかれ」と思われる援助者側からのアプローチによって、その人が元来持っていた生活をしていく上での知恵や、工夫が殺されてしまうことがあるかもしれない。
殺さず、活かすにはどうすればいいのか。
そのためには、援助者が、さまざまな物事の間に存在し、変わりゆくものである「関係性」というものについての理解を持つことと、そこに目を向ける意識が必要なのではと思う。というようなヒントを今日、面接をしていて患者さん家族からもらった。
まだよく落とし込めてないのだけれども、忘れないように今の言葉で記しておく。
所属する機関の特性
地域性
対象となる人の違い
発生頻度の高い問題
それに対する押さえどころ、など。
領域によって異なるであろう自身のポジショニングを理解するということはもちろん必要だけれども、どんな領域でソーシャルワークをするにしても、必要とされる基礎体力はおそらくそれほど変わらないのではと思う。
自身の持ち物を体系化すること、考え方の枠組みを持ちながら、必要時に新たな枠組みを作りながら仕事をするということをカラダに染み込ませながら、覚え込ませながらケースを積み上げていかないと、ただ漫然と経験年数だけが増えていくことになりそうで怖い。
「自分では言語化、理論化できないけれども、何か自分の中に表現したいものがあったとき、自分のやっているもっとも大事な部分はある時期まで言語化しないほうがいい」という建築家の言葉に、なるほどなぁと思う今日この頃。
言語化するということは具体化することに等しい。それは歓迎すべきことのようにも思うけれど、具体化したものを再度取り出して形を変えたりするには時間も労力もかかるだろうし、中途半端に言語化するくらいなら熟すまで待てってことが言いたいのかもしれない。そのあたりはなんかわかる気がする。
毎度の通りダラダラ書いてしまった。
明日は休みです。
映画でも見ようかな。