内省

公開日: 2009/05/08 MSW

感情が昂ぶることがよくある。



入院相談でのこと。家族は相手先のソーシャルワーカーから入院可能な期間の説明を受けていなかった。その後先方の病院とのやり取りの中で、結局、感染症の菌が消えてからの入院というところで落ち着くも、先方のソーシャルワーカーが 「それじゃぁ、消えなければ取ってもらえないってことじゃんか。ちぇっ」と一言。


この態度にも腹が立ったのは言うまでもないのだけれど、「移送車の手配とか家族が心配してるから…早めに入院時期を知りたい」とか、散々、家族の側に立って仕事してますよ、という感を所々でアピールするかのように宣言してきたのに、最後の最後のこの一言。結局は「転院屋」に成り下がっているのではないかと思いとても失望した。どうせなら、転院屋を前面に出して仕事してくれたほうがまだ気持ちいい。 知り合いに聞いたところ、その方は15年選手だそうだ。



自分の仕事ぶりに疑問を持たなくなったその先には、専門職としての死が待っている。と思っている。患者さん家族から「話せてよかった。心が軽くなった」と言われて、自分の中の課題がクリアできたのかな?って言っていた3年目の同業者がいたのだけれども、貴方は何処に立ち居地を定め仕事をしているのか、と問いたかった。


言語化・表出できたのはその人の力によるものがほとんどであって、ソーシャルワーカーの力量によるところはほんの少しだと思っている。言語化・表出は短期目標への過程でこそあるけれども、短期目標のひとつには成り得ないのだと思うのだが。


人に賞賛されたり、評価されたりするということはその人自身を満たしてくれる。よくやったと評価されることは仕事をしていく上での大きなモチベーションにもなるのだと思う。それは当然のこと。けれども、短絡的に「賞賛」「評価」に走ったとき、その先に患者さん家族の利益は見えにくくなる。



「追出し屋」でありたいと思い仕事をしている人はいない(と信じたい)でも、ソーシャルワーカーは自分たちが置かれた環境は、自身で気づかぬうちに、自分たちを容易に「追出し屋」に変えてしまう危険性を持っている。そういった場所なのだと戒めることが必要なように思う。惰性で流されていけば、あっという間になんちゃってソーシャルワーカーの出来上がりだ。


何のためにそれをするのか?と自身のアクションに対し問い、それが誰のための行動か?と重ねて問いかける。これを課し続けることはとても辛い。自身の仕事の無駄はもちろん、自身がどれほど利己的・保身的な行動に走っているかということを思い知れされることになるから。それでも、この二つの問いは、自身に問い続けていくべきだと思う。


「自分は違う!」と顔を背けるのではなく、自身を振り返り、律していく中で、同業者の仕事ぶりに目を向けられるソーシャルワーカーでありたい。ソーシャルワーカーという仕事への社会的信用・信頼もなにもかも
現場で奮闘するみんなが考え、勝ち取っていくべきものだと思う。だからこそ、「なんだあのソーシャルワーカーは!」と憤慨したとき、自身に照らし合わせて考えられる自分でありたい。


そして、自分が今後出会う同業者たちと、共に手を取り合い、ソーシャルワーカーが本当の意味で「プロフェッショナル」と成り得るには何が必要か、ということを考えていくことのできる、自身の言葉・哲学をきちんと持って仕事をしていきたい。
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