わたしがソーシャルアクションに興味関心をもった原体験について

公開日: 2015/04/30 CSW MSW ソーシャルアクション


最近、ソーシャルアクションに興味関心をもった原体験を改めて思い出しています。


最近、はじめて訪れた病院のエレベータの入り口に「小児科病棟には12歳以下のお子さんは入棟できません」と書かれた張り紙が張ってありました。


わたしは、ふと、10年前を思い出し、それとともに、19歳のときに立ち上げた、病児のきょうだいをサポートする学生団体での活動が、「ソーシャルアクションに興味関心をもった原体験」の、主たるものだったと改めて思いました。





当時、団体の活動が、新聞記事になり、それが発端でNHKで病児のきょうだいの問題がとりあげられ、日本各地から、同様の団体の立ち上げの相談をいただいたりしました。




自分たちが支えることができる人を「ただ単に黙々と」支え続けるのではなく、「支える」と「必要なことを変えていく(アドボカシー、ソーシャルアクション)」は両輪であるべきなのだ、ということを実地で学んだ原体験だったと改めて思います。



「サービスの提供」と、提供する中で蓄積された気づきを「社会に対して発信し、アドボケイトしていく」ことは、ひとりでも多くの人を支えるための方程式です。



なぜなら、ひとりでできることには限りがあるからです。(当たり前のことですが)ひとりでできないことも、意図や仕組みを共有した他者が加わることで、もっと多くのことができるようになり、かつ、仕組みの精度が高ければ高いほど、意志ある人に同様のことを為してもらうことができるからです。



卒業を間近にして、当時、活動をNPO法人化して、首都圏の小児科のある病院に広げていかないかと声をかけてもらったことがありました。

当時はNPOなにそれ?というおもいと、ソーシャルワーカーとして現場に立ってこそ、(数多の人に助けてもらった)自分が社会の歯車になれるのだ、という思いがありました。

先述したことを、当時薄々気づいていながらも、当時の私はその選択肢を選びませんでした。そして、わたしは、卒業論文は「小児の血液腫瘍」という当事者性を半分、もう半分は、「ソーシャルワーカー」に関するテーマを選びました。

活動は今も卒業校の学生さんたちが引き継ぎ、ひとつの社会資源として存在し続けています。


今になって、「なぜ、NPOとして活動を続けなかったのか?」、「なぜ活動を卒論でまとめなかったのか?」という問いに向き合っているのですが、それは、自身の闘病体験から付随して生み出されたアクションと大学卒業と同時に「卒業」、「決別する」ことで、当事者として「私は当事者だからわかるし、これが必要だ」という、ときに暴力性を有する声を完全に封印し、市民(当事者)という運動主体プログラムをアンインストールし、いち援助者として生きていくためのプログラムをインストールしたのだと思います。



一個人として、社会における機会の不平等を均したいと想い、いち援助者として、現場に出てから、出会った様々な”社会問題”と呼ばれるものに憤りを覚えながらも、自分がアクションを起こそうと思う矛先となったのが、特定の社会問題ではなく、社会福祉の領域からソーシャルアクションを起こせる「人」、「仕組み」をつくり、増やす、ということであったのは、おそらく、このような理由と、『自分たちが支えることができる人を「ただ単に黙々と」支え続けるのではなく、「支える」と「必要なことを変えていく(アドボカシー、ソーシャルアクション)」は両輪であるべきなのだ、ということを実地で学んだ』ことからくるのだと思っています。




わたしにとって、言葉というのは、物語の構成要素であって、言葉にできなければ、ページをめくることができないのです。



「適度な自己開示がある文章の方が、読んでいる方は面白い」


古くからの友人から言われた言葉です。



私は、このような文章を書こうとするときいつも、この友人の言葉と、少しニヒルな表情で笑う彼を思い出すのです。



そういえば、当時、いち早く新聞記事をみつけ、連絡してきてくれたのもその友人だったなあと思いつつ。





………………………………………………………………………………………………
SCA発のメールマガジン→ご登録はこちらから!
HYのメールマガジンに登録する→登録はこちら!

  • ?±??G???g???[?d????u?b?N?}?[?N???A