ポスト・スティグマ vol3【創作小説】

公開日: 2014/04/05 CW 創作

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3年前の12月。その日は、雪が舞っていた。 


白く彩られた街に、浅黒い油にまみれたような畑中の顔は雪解け時に見られる泥を連想させた。エレベーターの扉が開きペタペタと濡れた足音が聞こえ、視線をやると黒い長靴に紺色のセーターを着た老人が立っていた。 



彼はこちらに気づき軽く会釈をすると 
「生活保護の相談はこちらでよろしいでしょうか」と低く籠った声をこちらに向けた。 


「そうです。どうなさいましたか。」 


声の先には浅黒い肌をした背の低い老人が閉じていない濡れた傘と黒い手提げかばんを手にしてこちらを見ていた。老人は不動の問いかけに歩を進めると、ふっと軽い溜息をして話し始めた。 


「どうしたらよいものか。困り果てていまして。何から話してよいのやら」 


そういうと畑中は白髪交じりの短髪の頭を申し訳なさげに視線を下に落としながら2,3度掻いた。ごつごつした右手の指を見て不動は畑中が何らかの技術職なのだろうと推測した。


「お話しいただけるところからで構いません。こちらにいらしたということは何かお困りのことがおありですか」 


不動の言葉に、畑中は視線を不動の顔に移した。背の低い老人の瞳が少し斜め上に移り不動の瞳を覗き込んだ。 


「どうぞ。こちらにおかけください」 


畑中はボロボロのビニール傘をあわただしく足元に置き、せわしなく椅子に腰かけ、2,3度咳払いをした、 


「お話を聞いていただけるようで安心しました。実は今妻が病を患い入院しておるのですが、入院も長くなってしまい、貯金も底をついて、病院の支払いが難しくなってしまったのです。年金も私と妻で10万ほどでして、それだけではとてもではありませんが、治療費を支払いながら生活をしていくことができなくなってきてしまいまして。なんとか助けていただけないかと思いまして…・お恥ずかしい話ですが」 


恥ずかしいという恥の感情を畑中は素直に表した。正直な胸のうちなのだろう。うつむき加減な畑中の視線が不動にそれを教えた。 
「福祉の世話になるのは恥」という恥の意識が受給者の伸びを抑えているという分析もあるほどだ。 今でこそ権利としての生活保護の受給を主張する者が多くなってきた中で、畑中は「福祉の世話になりたくない」という葛藤との戦いを敗れ、今ここにいるのだろうと不動は思った。 


現在の年金収入。貯金額。土地など資産になりそうなものはあるか。子どもや親族に手助けしてくれそうな人間はいるか。妻の聡子の病状等。生活保護の受給を判断するに当たって必要となる情報をひとつひとつ丁寧に聞いていった。年金は月に10万弱と、畑中の年齢の夫婦二人暮らしの国が基準としている最低生活費を下回っており、住居は公団住宅に入居中で、家賃はこの地域で破格に安価なものだった。自家用車も土地も資産として処分できそうなものはないようであった。


何より畑中の話の通り、妻の聡子の入院費が生活をひっ迫させていた。妻の聡子の病名は「脊髄小脳変性症」国が難病に指定している病気であり、今の医療では根治が困難な病気であるということが畑中の口から語られた。気のせいかもしれないが畑中の瞳には涙が溜まってたように見えた。 


約3、40分の話の間、畑中はゆっくりと、妻の聡子の病気が判明してから今に至るまでの話を口にしたが、畑中の口から妻の聡子以外の家族・親族については語られず、不動は一言家族について尋ねた。「お子さんはいらっしゃるのですか?」その問いに、畑中は少しだけ肩を落とすと彼の口から言葉が止まった。 


珍しいことではない。親族に知られたくないという感情は誰しもが抱くものだ。だが、どんなに口を噤んでも、保護決定に至るまでには扶養義務のある親族への照会がなされる。その時点で結局は全てが明らかになってしまう。 


「います。娘が一人。」 


視線こそこちらに向けられてはいたが、畑中が何を見ているのかはわからなかった。 


「そうですか。娘さんとは一緒に暮らしてはいないのですか?」 


「ええ。もうしばらく顔を見てもいません。最後に会ったのはいつだったか。」


悲しげ、という一言では表現できない複雑な感情の入り混じった一言だった。畑中夫妻の長女である里美は都内で看護師をしていた。扶養照会の手紙を送るも「かかわるつもりはありません」という返信一つで、結果、畑中夫妻は生活保護受給となった。 


戸籍謄本によれば畑中夫妻には里美の他に、忠司という息子が一人いた。だが、里美が生まれる12年前に死亡しており、死因は病死とのことであった。畑中の口から語られなかった事実は、1人息子を亡くした夫婦の苦難を暗に示していた。この世にいないものに扶養義務も何もない。必要以上のことを聞く必要はなかった。


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-2-


時計の針は11時半を指していた。
空模様は変わらず、受給の相談に訪れる人々の肩を彩る雪の欠片がそれを教えた。
 
だいぶ考え込んでいたようだ。冷え切った珈琲を口に含む。苦味が口の中に広がる。今日中孤独死防止委員会に提出するにケースレポートをまとめておきたかったが、とてもそんな気は起らなかった。 


再度過去のケースレポートに目を落とす。家族構成を記した欄の長男忠司の死が目に付いた。畑中は保護受給決定後も忠司の死について語ることはなかった。語る必要もなかったのだろう。だが、口の中に広がる苦味と同様に、その事実が不動の心の中に居着いて仕方なかった。意味のないことかもしれない。ケースワーカーの仕事ではない。警察に任せておけ。自らの行動を否定する言葉が沸き起こる。


畑中里美が誘拐されて一週間。犯人側からのコンタクトがないという事実が、最悪の事態を想像させた。犯人は目的を達成することができず、何かしらの理由で畑中里美に手をかけることになってしまったのかもしれない。もしそうであるとしたら畑中との約束は永遠に果たせないということになる。今の状況も想像しうる最悪の結末も不動にとってはさほど変わりはなかった。 


「畑中さん。約束は守るよ」 


変わり果てた畑中の前で誓った一言を反芻し、受話器を手に取る。 
3コール目で民生委員の木村茂子が電話口に出た。 


「M市生活支援課の不動です。
畑中さんの件ではお世話になりました」 


「いいえ。こちらこそ。
不動さんの方こそいろいろ大変でしたでしょう。娘さんの一件も…。心配よね。」 


畑中の亡骸は市内の格安の業者に依頼して荼毘に付された。
不動をはじめ、管理人の島田、民生委員の木村、畑中の友人数人で静かに畑中を見送った。遺骨はまだ安住の地を見つけられていない。病床に伏す妻の聡子に問うても答えが返ってくるような状況ではなく、畑中の遺骨は引き取り手を静かに待つほかなかった。


木村はM市に住んで30年以上になる。
畑中里美がまだ東京に出ていく前からこの地域に根を張っている存在だ。 


「そのことなんですが。
気になること、というか木村さんにお聞きしたいことがありまして」


「私に?」
少しトーンの上がった木村の声には驚きが混じっていた。 


「ええ。畑中さんたちがM市に引っ越してきたのがいつだかご存知ですか」 


「畑中さんたちがこっちに越してきた時期?ええと、確かあたしが26の時に旦那と結婚して子どもが生まれて、公団住宅に引っ越してきた畑中さんの旦那さんには大分よくしていただいたのよ。奥さんの聡子さんとはあまりお顔を合わせることはなかったんだけど。ええとだから…。今年私は63になるから、37,8年前かしら?たぶんそんなところだと思うわ。」 


37,8年前であれば長女の里美は生まれている。
4,5歳であった里美とともに3人でM市に移り住んだことになる。 


「そうでしたか。
M市に越してくる以前はどこにいたとか。そんな話聞いたことありませんか」 


電話口の向こうの木村の息が一瞬止まった気がした。 


「ねぇ。不動さん。そんなこと聞いてどうするの。
畑中さんの娘さん宛ての手紙の件、もしかして本当にあなたがどうにかしようなんて考えてるんじゃないでしょうね。」 


その通りです、と言えるはずもなく言葉を濁す。 
「あは。そんな無茶はしませんよ。無事警察に事件を解決してもらうために、手紙は警察に託しました。何か事件の参考になるかもしれませんしね」 


「そうよ。そうしたほうがいいわ。」
木村の鼻息が電話越しに伝わってくる。 


「M市に今回の一件でケースレポートをあげなきゃならないんですが、あまりに私の記録が疎かなものでして、木村さんに助け船をお願いしたいなと。大変恐縮なんですが」 


「仕方ないわね」
長年着付けの教室を開いていただけあって教えを請う者に対する木村の態度はまんざらでもないようだった。 


「確か、畑中さんご夫婦はN県K市から越してきたと言ってたわ。私の妹が嫁いだところと一緒だったので驚いたのよ。日本海が望めるとてもいい景色に美味しい魚。ここは内陸だからずいぶん羨ましいなと思ったわ。にしても遠くからよくこんな何もないところに来る気になったわよね。今思えば」 


N県K市からT県M市までは300キロ以上ある。
一家で引っ越すには勇気のある距離だと思った。
何かしらの理由があったのだろうか。長男の忠司はそこで生まれ短い一生を閉じたのだろうか。ケースレポートに記された長男忠司の死が目に付いて仕方ない。 


「ありがとうございました。急にすいません。
これでなんとか今日中にケースレポートをまとめられそうです。」 


「お役に立てたならよかったわ。娘さんの事件、早く解決するといいわね。娘さんに何かあったら畑中さんも浮かばれないわ。」


最悪の結末が木村の口から言葉にされ、
珈琲の苦味が消え、渇きを覚えていることに気づく。 


「そうですね。本当に。」


木村との話を終え受話器を置く。
不快な口の渇きが、自分が意図せずとも事件の渦に飲み込まれていくのだろうという根拠のない予感を教えていた。

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-3-

「不動課長。外線で~す」 


新見の間延びした声に現実に引き戻される。 


「さっきのあの人。ええと。」 


小言をいう気にもならない。


「いいから、回せ!」 


「鋼野っす。犯人から要求があったみたいっすよ!」 


なんで俺に電話してくるんだ、と一言毒づきたくなったが、
今は鋼野の話から情報を得るのが一番早いということはわかりきったことだった。 


「要求?」 
動揺を悟られないよう言葉を返す。 


「いや、それがまだ警察から発表されてないんですが、行方不明になっている畑中里美の通信記録から、20代の男が容疑者候補として挙がったらしいっす。にしても、浅はかっていうか。用意周到って言葉とは程遠いっていうかプリペイド式の携帯電話が使われることとかはよくあるんすけど、そんなことも全然やっていない。まるで、場当たり的犯行みたいなんですわ。」 


鋼野の言葉の弾みから彼が興奮していることは明らかだった。犯人からの要求があるということは畑中里美はおそらくまだ生きている。その事実が不動の心をほんの少しだけ軽くした。 


捜査線上に上がったという20代の男。頼むからくだらない痴話話のもつれなんかではあってくれるなよ。この事件が畑中の死を汚すことだけはあってほしくない。不謹慎な感情が芽生えていることに気づく。 

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そんな不動の感情とは対極を行く鋼野の興奮は数時間後、最高潮に加速することになる。 



「24時間以内に歌舞伎町から一人残らず人間を退去させろ。 
いいか。24時間以内にだ。24時間後にまた連絡する」 



誘拐犯から出された要求は、この事件に関わる全ての人間を困惑の渦に陥れた。 
不動は確信した。逃れられるものではないと。大きな渦は不動を巻き込み、大きなうねりとともに動き始めていた。 


「しあわせってなんですかね」 


畑中の生前の顔が目に浮かんだ。 
彼が問いかけた言葉は誰に向けての言葉だったのだろうか。今となってはその真意を知ることはできない。畑中に関わる最期の仕事になる。確信となったその言葉が不動の心に腰を下ろすのがわかった。 


「この事件の渦から逃れることはできない。 
畑中の生き様を、彼の言う真実を明らかにしない限り。」 


雪が薄らと解けた大地が顔をのぞかせていた。 
窓から見える夕焼けの空が不動の決意を後押しているように思えた。 





vol4へ続く
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