(Books)【教育系】オレ様化する子どもたち 他

公開日: 2014/04/06 勝手にブックレビュー 読書記録

読書録:教育系)

ここ最近、教育関係の方(SSW含め)と話をする機会が多いので、ふと思い出せる本棚にある教育に関するものを流し読みしました。




「オレ様化する子どもたち」

著者はキャリア40年超の教師。
農業社会的から消費社会的に移行する中で「学校」がどう変化したかという論がなるほどと思うものだったので、抜粋。

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『「消費社会的」段階に入って進んだのは、「社会の学校化」ではなく「学校の社会化」であった。それまで学校は国家(戦後はアメリカの占領軍)と結びついて前近代的な家や地域や共同体を解体して資本主義的システムに合うように変える動きをしていた。 

子どもたちを近代的な政治(民主主義)や生産(資本製生産)や生活(国民、市民)として育成することによってである。学校は「近代」とその国家からその権威を保障されていた。 
ところが、1970年代に入り、近代が確立する国家(政治)は後景に退き、学校を動かすものとして登場してきたのは経済(市民社会的な欲望)であった。子どもの成績を上げて子どもの商品価値を高めたいとする親たちの欲望が学校に押し寄せて、学校の共同体を壊しつつ、子ども(生徒)を点数で一元化して見る偏差値教育体制ができあがった。学校が、家や地域(住民)の社会的(経済的)欲望の「出店」になったのである』

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”学校が、家や地域(住民)の社会的(経済的)欲望の「出店」になったのである”


この一文は、内田樹氏が「下流志向」で、以下、「教育サービスの買い手」という節で言っていることと接続するなあと思って、面白く両方を同時読みした記憶がある。以下、下流志向(http://goo.gl/d9CX9j)から一部抜粋。

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『何よりもまず、消費主体として自己確立することを、今の子どもはほとんど制度的に強いられている。少子高齢化等の原因により、夫婦に子ども1人の場合、「シックスポケッツ」という、両親とその祖父母の6つのポケットからお小遣いが供給され、うっかりすると三歳四歳から、紙幣を携えてものを買いにいった経験を持っている子どもがいる。 

昔は、家事労働の手伝いの経験より先に、まずお金を使ったことがあるという子どもはほとんどいなかった。今の子どもたちは、その多くが、”生まれて初めての社会経験が買い物だった”ということになっている。 

お金を使う人間として立ち現れる場合には、その人の年齢や識見や社会的能力などの属人的要素は基本的に誰もカウントしない、それゆえ、「ぼくは買い手である」と名乗りさえすれば、どんな子どもでもマーケットに一人前のプレイヤーとして、参入することが許される。それは快感として残り、その結果、「買い手として、名乗りをあげること、何よりもまず対面的状況において自らを消費主体として位置づける方法を探すようになる。 

そして、当然、学校においても子どもたちは、「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取しようとする。彼らはまるでオークションに参加した金満家たちのように、教壇の教師を眺め、「で、キミは何を売る気なのかね?気に入ったら買わないでもないよ」 

それを、教室の用語に言い換えると、「ひらがなを習うことに、どんな意味があるんですか?」という言葉になる。

消費主体にとって、「自分にその用途や有用性が理解できない商品」というのは存在しない。そのようなものはそもそも商品として認識されない。であるから、「ひらがなを習うことに、どんな意味があるんですか?」は、消費主体としてごく自然な質問をしていることになる。「この商品は何の役に立つのか?」と訊くのは消費者の権利であり、義務であるから」』

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”学校が、家や地域(住民)の社会的(経済的)欲望の「出店」になったのである”

”社会的背景により、消費主体というポジションを先取した子どもが、教育サービスの買い手化する”


両著を、読み比べる、非常に示唆深いなと当時思った。


他に、出身階層という社会的条件を違いが子どもにもたらす決定的な差について警鐘を鳴らす苅谷剛彦氏の「学力と階層」(http://goo.gl/y0BsVN)も、社会システム論的に「教育」を考える上で、有用だった。


これらの本は、あまり明るい話がないのだけど、「先生はえらい」という、内田樹氏が「日本全国の先生を励ますために書いた本」は、教育というかなんというか、自分にとっては、師弟関係論を考える上で役になった。長くなりますが、以下「先生はえらい」(http://goo.gl/ue0nQd)から抜粋

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書物を経由しての師弟関係というのはもちろん可能ですし、TV画面を見て、「この人を先生と呼ぼう」と思うことだってあって当然です。 
要するに、先方が私のことを知っていようが、知っていまいが、私の方に「この人の真の価値を知っているのは私だけだ」という思い込みさえあれば、もう先生は先生であり、「学び」は駆動するのです。 

「学びの主体性」ということで私が言っているのは、人間は学ぶことのできることしか学ぶことができない、学ぶことを欲望するものしか学ぶことができないという自明の事実です。(中略)  

学びには二人の参加者が必要です。送信するものと受信するものです。そして、このドラマの主人公はあくまでも「受信者」です。  

先生の発するメッセージを弟子が「教え」であると思い込んで受信してしまうというときに学びは成立します。「教え」として受信されるものであれば。極端な話、そのメッセージは「あくび」や「しゃっくり」であったってかまわないのです。「嘘」だってかまわないのです。

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専門外の領域の知識などは、どの本を読んだかによって偏りが出ると気づきます。


この人はすごいなと、おもしろいな思う人(年上年下に限らず)に紹介してもらう本を読んでいくという、紹介型読書体験が、最近は、マイブームなので、しばらくは、その方式でいきたいところ。









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