学びの価値とはなにか?という問いについて考える。

公開日: 2013/09/07 MSW SW解体新書制作委員会 エッセイ 思索



「このクソ講師!!話が脱線しまくりだ!カネ返せ!!」という言葉を先日某所で聞いた。
そのとき、ふと思った。「学びの価値とはなにか?そもそも学びをどのように価値化することができるのか?」


私は、学びの価値とは、「言葉にできないことに耐え続ける時間」を与えてくれることなのだと考えている。その論に至った今現在の自分の考えを変遷をまとめてみた。

(約2400文字。長文になります…。お時間がある方はよろしければお付き合いください)




1.商業主義的学びとは、奇麗に陳列された「商品」である。


冒頭の「カネ返せ!クソ講師!!」という発言は、「学び」に自らのニーズを当てはめようとする=「商業主義的学び」と考えることができる。そこにあるのは、ニーズにあった学びを購入するというロジックだ。


であるから、「商業主義的学び」は、奇麗に陳列された「商品」であり、「ここからここまでの学びは、いくらです」という値付けと共にしか、商業主義的学びの価値は語られない。いや、語ることができない。


商業主義的「学び」から離れ、学びを『用意されたものではなく、学びとは「未知」であると考えたとき、自らで学びを値付けすることはできなくなる。未知とは、「いままでだれも知ることのできなかったこと」であるから、誰も値札がつけられない。


であるから、「わたしには、この学びが必要で、そしてこの学びの価値はこれくらいだから、いくら払います」というのは、最早学びではなく、自意識と形骸的知識からくる”消費”でしかない。


「この学びはこれくらいの価値がある」と、自らが言い切れたとき、それはもはや学びではないのだとしたら、「この学びには、こういった価値がある」と言うまでに至る(決して至れないのかもしれないけれど)過程こそが学びなのだ思う。


「この学びには、こういった価値があるのだと、言おうとするまでのプロセス」こそが学びであるというのは、「自分は○○を学んでいます」と言うとき、「なぜ、そのことをこれから時間をかけて学んでいく必要があると考えるのか」ということを時間軸の中で語ることができるか、できないかということ、に帰着する。


「自分は○○を学んでいます」と言うとき、「なぜ、そのことをこれから時間をかけて学んでいく必要があると考えるのか」ということを時間軸の中で語ることができるようになればなるほど、「学びの価値を言語化するまでのプロセス」は強固なものになり、学びの成熟度みたいなものはあがるように思う。


2.考えるカラダを鍛えるトレーニングとしての「学びのプロセスを価値化すること」


商業的学びは、容易な理論武装を可能にする。

理論武装とはよく言ったもので、知識とか理論という武具は、一時的にはその人の戦闘力等をあげるけれど、肝心のカラダが出来ていないと、武具のパラメータは不変であるから、全体としての戦闘力は、すぐに頭打ちになる。


だからこそ、武具を扱う人間の身体を鍛えること=知識や理論を扱う人間の「考えるカラダ」を鍛えることを考える必要がでてくる。


知識や理論を扱う人間の「考えるカラダ」を鍛えることを考えることは、商業的主義的学びへのアンチテーゼ、であるように思う。



考えるカラダは、商業主義的学びからでは、決して得ることはできない。
考えるカラダを鍛えるトレーニングは、「学びのプロセスを価値化」することに尽きる。


「学びのプロセスの価値化」とは、「こたえの出ない物事について考え続け、暫定的なこたえを出しながら、そのこたえを適宜アップデートし続けることのできる力」を得ていくことでもある。



3.学びの価値を保留し続ける先にある、恐怖と、可能性。


「こたえの出ない物事について考え続け、暫定的なこたえを出しながら、そのこたえを適宜アップデートし続けることのできる力」を得ていく過程は、恐怖と対峙する時間でもある。


人は未知に恐怖を抱く。知らないから怖い。だから、適当にこたえを付与し、実体を与えることで、その恐怖から逃れている。商業的学びに「飛びつく」のは、未知への恐怖が根底にあるからだ。


「自分が学んでいることの意義を説明できない」ということは、学びに価値があるのか、その学びを得ることで、自分がどう変わるのか、ということを説明できない。
これは人を不安にさせるし、不安定にさせる。


「こたえの出ない物事について考え続け、暫定的なこたえを出しながら、そのこたえを適宜アップデートし続ける」には、「知らないから怖い」という未知への恐怖の存在を許容し続けるということも含まれるのだ。


世界を自分のもつ言葉だけで結論付けることのできない世界には、常に恐怖がつきまとう。



「△は、□だ」と断言できると、生きていく上での未知という恐怖はひとつ減る。
だけれども、ひとつ断言した瞬間に、可能性はひとつ消えていく。


「こたえの出ない物事について考え続け、暫定的なこたえを出しながら、そのこたえを適宜アップデートし続ける」というのは、断言を保留し続けること。


言い切ることで、恐怖をひとつ消し去り、そして可能性もひとつ切り捨てる。暫定、保留、というのはポジティブに捉えると、「恐怖に対峙し、可能性を担保し続ける」ことのように思う。


学びの価値を「保留し続けること」は、「未知という恐怖に対峙し、その可能性を担保し続ける」ことである。それによって、考えるカラダは鍛えられていく。さすれば、商業的学びという武具を扱う人間のパラメータも向上する。


筋トレも、効果はすぐに出ない。考えるカラダをつくることも同じだ。
だからこそ、「言葉にできないことに耐え続ける時間」が、学びには必要なのだと私は思っている。


学びの価値とは、「言葉にできないことに耐え続ける時間」を与えてくれることなのだ。29歳の自分がそう定義したことを、10年後の自分は再定義するだろうか。はたまた頷くだろうか。10年後を楽しみにしたい。



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