自己覚知論:援助者としての「自由な振る舞い」について考える

公開日: 2012/05/24 MSW 思索

多くのソーシャルワーカーは、対象となる人々との関係性を築き、関わる過程で、様々なことを考えます。そして、面接場面で話を「なんとなく」聴くことなんてもってのほかだ、と多くの方は思っているのではないかと思います。




「なんとなく」を許さない。
「なんとなく」に明確な意味付けを求める。


これは、多くのソーシャルワーカーが通る道なのだと思っています。


「なんとなく」は言葉が悪いですが、もし、「なんとなく」を「ゆるやかさ」とするならば、「ゆるやかさ」は援助者自身が「自由に振る舞う」ための、重要な要素となると考えています。


そしてそれと同時に、援助者はみな「自由に振る舞うこと」を封する「枷(かせ)」を有しているのだと考えています。


本エントリでは、『自己覚知論:援助者としての「自由な振る舞い」について考える』と表し、上記仮説を踏まえた上で、援助者としての「自由な振る舞い」と、それを封する「枷(かせ)」について考えてみようと思います。





ゆるやかさは、感情と理性のバランスコントロールの上に成り立つもの

全ての事象に意味付けを過剰に求め、援助過程の全行程に意味を持たせようとする援助は、ガチガチとした、「ゆるやかさ」の入る余地を許さないものです。


「自由に振る舞うこと」の定義を「意図的に用いている様々な技術などを、身体に叩き込み、意識せずとも活用できる職業的身体を得た上での振る舞い」とした場合、援助者として熟達した職業的身体を得たその先に、「ゆるやかさ」は纏うことのできるものなのだ、と言うことができるのだと考えます。


ゆるやかさは、関係性の中でさまざまな循環を生み出す要素となり、そして、ゆるやかさは、感情と理性のバランスコントロールの上に成り立つのだと思うのです。


例えば、奥川先生の言う「相互交流」は、援助者が、患者さん家族が表出したものを、一方的にカラダの中に取り入れ、引き受けるということではなく、援助者がそれを「咀嚼」するということが重要なことだと考えます。


咀嚼=吟味とでも言えるかもしれません。


相手から取り入れたものを咀嚼=吟味するとき、それは感情と理性によって成されるべきだと思うのです。ですから、ゆるやかさは、感情と理性のバランスコントロールの上に成り立つと考えています。




感情=エネルギーの源泉ではあるけれど…

感情レベルの振れ幅の全てを、援助者の発するエネルギーとして発散させた場合、どうなるかは容易に想像できると思います。


例えば、「援助者が、怒って、その勢いで面接に入り、怒りに任せた勢いで面接を行う」
というような場面のことです。


上記においてマズイのは、「怒りに任せた勢いで面接を行う」ということもそうなのですが、それを自覚できていないこと(コントロール可能だと考え、それを試みていないこと)が一番マズイのです。


援助者が、自身の感情レベルの振れ幅を自覚した上で、振れることによって生じたエネルギー(正負共に)を活用するには、その振れ幅のうちのどれくらいを、どのように相手に返すべきか、ということを考えた上で(理性でコントロールした上で)、発していくということを考える必要があります。


これは、訓練をしないと絶対にできるようにはなりません。
訓練とは、自身のさまざな変化に対して自覚し、変化を敏感にキャッチできるようにすることです。


感情レベルの振れ幅について敏感でないと、振れることによって生じたエネルギー(正負共に)を活用に結びつけることが難しくなります。(理性でのコントロール域まで達せない)コントロール不良気味な振れることによって生じたエネルギーは、ときに援助者を暴発させてしまうわけです。




快なる感情こそ、吟味すべき



「怒り」以外に私が注意すべきだと考えるのは「心地よい」「快なる感情」です。


面接場面で、理由もわからず「快」に付随する感情や感覚を得たとき、それは何かの注意信号だと考えた方がよいと個人的には思っています。


「快なる感情・感覚」には、より一層の吟味を試みるべきだと思います。
「快なる感情・感覚」は行動を加速させ、それに無自覚なままだと、援助者が「突っ走る」アクセルにもなりかねないのでは思うわけです。


自分を暴発させないためのアクセル
それに制限をかけるために、援助者たちは様々な「枷(かせ)」を創り出すわけです。


そこで、冒頭の



「なんとなく」を許さない。
「なんとなく」に明確な意味付けを求める。


というとことに立ち戻ります。


これこそが、援助者自身の「枷」をよく表してると思っています。


気持ちのままに「自由に振る舞う」ことは、様々なアクセルを踏みっぱなしにするようなものです。

だからこそ、「自由に振る舞う」ことに対し、「何となくを許さず、何となくに明確な意味付けを求める」という援助者自身の「枷」を創り、暴発することを防いでいるのです。




自由にやってみて、失敗することから学べることはたくさんある

面接場面で「自由」に居られる援助者は、熟達者か天賦の才を持っている人だけなのだと思います。


「枷」は自分の言葉、態度、感情等を制御するように働きます。
きっと、枷がひとつ外れていくごとに、援助者としての「自由」が増えるのだろうと推測をしています。


「自由な振る舞い」は「意図的に用いている様々な技術などを、身体に叩き込み、意識せずとも活用できる職業的身体を得た上での振る舞い」となり得た時にはじめて、援助者自身の中で、「枷」を外しながら、自由になれるのだと思うわけです。




新人の頃に「ものすごいよく聴けた」っていう快感センサー大満足(勝手に)面接をして、後にそれがものすごい勘違いで、見当違いだったということはよくあります。




「ボク(ワタシ)の感情振れ幅計測器が、実はぶっ壊れてて涙目」っていう経験しておくことは、援助者のスタートしてはとってもよいと個人的には思っているので、「失敗してしまった経験」こそ、きちんと振り返り、吟味する材料にしよう!ということを新人さんたちにはお伝えしたいと思っています。


奥川先生の著作







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