言葉の消費期限と射程距離について考える

公開日: 2012/03/25 思索

ふと、昔に書いた文章を読み返し、気づくことがあります。


それは、他者に向けた言葉には「消費期限と射程距離」があるのだということです。


私は、学生の頃、想いを込めて行っていた物事について語っていた言葉を、今は同様の熱量を持って他者に語ることは出来ません。これは自分の中にある「その物事についての言葉の消費期限が切れた」ということなのだと理解しています。



そして、自分の言葉が他者にどのような意味をもって伝わるか(誰に、どんなふうに)という「言葉の射程距離」も変化していったなと思うのです。今、自分の言葉で何かを発するとき、その時々の自分の立ち位置を確認し、「言葉の消費期限と射程距離」について考えている自分がいます。


私個人の「言葉の消費期限と射程距離」の変遷については、「立ち位置(軸足の置き場)」の変遷を抜きにして考えることはできません。「当事者→ピアサポーター→援助者」という立ち位置の変遷とともに「言葉の消費期限と射程距離」は変化してきたという自己理解の元に、自分の言葉の変化を眺めています。


「当事者→ピアサポーター→援助者」という「立ち位置(軸足の置き場)」の変遷は可逆性があるということも理解しています。その都度変化してきた「言葉の消費期限と射程距離」は、立ち位置の変遷とともに語り直され、新たな「消費期限と射程距離」を得るのだろうな、と思うわけです。


正確に言えば、「立ち位置(軸足の置き場)」の変遷が有しているのは、可逆性ではなく、循環性とでも言えるのかな、と。


とある経験に対する自分自身の言葉の消費期限が切れる前に「言葉にし、意味付けする」ことを経験しないで、年齢や役割変化により、新たな経験に対する言語化・意味付けを迫られるようになってしまうと、「とある経験に附する語りきれない不完全感」みたいなものが残ってしまい、それがときに人を苦しめることにもなるのだと私は思っています。


「過去の経験」が意味付けによって完全にコントロールできず「飼い慣らす」に留まざるを得ないのは「新たな経験」が「過去の経験」とリンクし意味付けを「無力化」することがあるから。それに対するカウンター(対抗策)として、過去の経験を「現在」から新たに語る=「語り直し」の作業が必要になる。 (参照:自己覚知論「経験」を自身の屋台骨に昇華させるために)

過去のエントリで上記のように記しました。

「言葉の消費期限と射程距離」を考えるにあたり、『「飼い慣らしている」過去の経験が、「新たな経験」とリンクすることにより「意味付け」を無力化するときに、カウンター(対抗策)として、過去の経験を「現在」から新たに語る=「語り直し」の作業が必要になる』という論理を避けて通ることはできないような気がしています。

なぜなら、「語り直すために必要な言葉」が生まれた瞬間に「新たな言葉の消費期限と射程距離」も同時に生じると考えるからです。

今、どうしても、必ず言葉にしておかなければならないことがありますか? 
それは、誰に向けた言葉ですか?

この2つの問いへの答えこそが、「語り直すために必要な言葉」に付随する「言葉の消費期限と射程距離」を明らかにするヒントになるのではないか、と私は考えています。


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