「待つ」ということについて考える

公開日: 2012/03/14 MSW

最近「待つ」ということについてよく考えます。


わたしは急性期の医療機関に勤めています。
日々時間の流れの早さに圧倒され、待つことの意味を「立ち止まって」考えることをあまりしてこなかったと最近になって内省しています。(お恥ずかしい話ですが…)


ということで、本エントリでは、対人援助職として、対象となる人との関わりの中で考える「待つ」ということについて記していきたいと思います。



「あなたからの返事を待ちます」
「あなたが来るのを待っています」


上記のような文脈で「待つ」ということを考えるとき、「待つ」ということは受動的な態度の表明のように聞こえます。


「待つ」ということ』の中で鷲田清一氏は以下のように述べています。






何かを待つということは、どこかに先取りという面があるのだった。先取られるものは、だから、未来完了のかたちですでに視野のなかにある。ひとは、予期というかたちで、じつはもうすでに知っているものを、時の彼方に、べえごまのように、あるいは網をかけるように、投射しているのだ(P29)

鷲田氏の言う通り、「待つ」ということを「どこか先度って」「こちら側」の時間の流れに相手を引き込もうと考えているうちは、「受動的な態度の表明」だけであって、本当の意味での「待つ」ことにはならないのだろうと考えています。



この人には時間が必要なのだから…
この人は今はそれができない時期だけれども、そろそろ…
この人に変化の兆しが見えてる…


というように、「人間に対する専門家」であるかのように対人援助職が、対象となる人に対し、意味付けをした上で「さて、待つべきだ。さ、待とうか。」と考え、身構えるとき、


そこにはすでに「待つ」という行為の意味が消失しているのだと思うのです。


「待つ」ということを「他者の予想される行為に対して身構える行為」として「予想、予測される範疇の中に他者が収まること」であると無意識に捉えていたとしたら、それは「待つ」ことではなく「待ち伏せる」ことになるのだと思うのです。


「待つこと」は、「自分の予想、予測される範疇の中に他者が収まること」という可能性と共に、それと表裏一体である「自分の予想、予測外の他者に関する事実が、自分の目の前に何の準備も無く現れる」という可能性を含んでいます。


「自分の予想、予測される範疇の中に他者が収まること」

「自分の予想、予測外の他者に関する事実が、自分の目の前に何の準備も無く現れる」


「待つこと」には、両者の可能性が内包されている。


つまりは、


待つこと」とは、「他者の予想される行為に対して身構え、先取る行為」ではなく、

「他者というよくわからない存在を引き受ける行為」なのだと私は考えています。


「待つ」ということ。
「待ち伏せること」
「待つ」ことについて考えてみること。


そんなことに思いを馳せ、考えてみる。
そんな最近なのでした。





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