他者を理解しようとする行為-自分の容量について考える-

公開日: 2012/02/25 MSW コミュ論 思索 自己覚知



「他者を理解しようとする行為は、そのプロセスに苦痛を伴う」
日々仕事をする中で上記のように思うようになりました。数年前のことです。


人は常日頃、自分自身が持つ理解の範疇の中で、他者を捉え、理解しようとしているのだと思います。当然と言えば当然なのですが、それは言い換えれば、「本来は存在しているはずの他者の様々な要素」を「自分の容量外のもの」は、切り捨て、コンパクトに「理解できるカタチ」に変容させて、「ああ、理解できた。」と落ち着かせている、ということなのだと思っています。


上記を踏まえ、本エントリでは「他者を理解しようとする行為-自分の容量について考える-」と称し、私個人の考えを記していきたいと思います。



1.他者を理解しようとする際に生じる苦痛とは


冒頭で「他者を理解しようとする行為は、そのプロセスに苦痛を伴う」と記しました。


私は、誰かを理解しようとする行為は、自分の容量の中に他者を収めていこうとする(理解できるカタチに変容させる)のではなく、自分の容量を自覚し、拡張した上で、相手を包み込もうとする行為、つまりは(自分が変容していく)という行為であるのだと思っています。


自分に合わせるのではなくて、相手に合わせて自分の容量を拡張する。
他者を理解できるカタチに変容させるのではなく、自分が変容し相手を包み込もうとする。


だから苦痛を伴うのだろうな、と思うのです。



誰かを本気で理解しようと思ったら、そこには自分の容量の少なさに気づいてしまうという苦痛が待っているかもしれません。人はそれが怖いので、自分の容量の中に他者を無意識に収めていこうとするのだと考えています。


苦痛を回避しようとするとき、人は自分勝手な「期待するストーリー」を他者に求めがちになります。そうすれば、自分の容量の中に他者を収めていくことができ、自分の容量の大小に気づくことも無く、苦痛なくいられます。


他者を理解しようとする時、それは自分自身が試される瞬間でもあります。
他者のことを思えば思うほど、理解しようとすればするほど、自分の容量について気づかざるを得なくなり、それがときに、自分を傷つけるわけです。


だから苦痛が生じる。私はそう考えています。



2.ソーシャルワーカーは「場」から(自分が変容していく)ことを要求され続ける


ソーシャルワーカーとして現場に経つとき、ときに非情なる現実に対峙している人を目の前にして、「自分は、相手を自分の容量に収めようとすることで、苦痛を避け、逃げようとすることを選んでいないか」と問う瞬間があります。


この仕事はそれを本来許さないはずなのだと思います。

というのは、現場に立つこと自体が、ソーシャルワーカーとしての自分の容量を拡張し続けることを要求するからです。「他者を理解しようとすることで生じる苦痛を伴い続けること」を、ソーシャルワーカーが立っている「場」は要求するのです。



本来、他者を完全に理解するなんてことは不可能です。
そんなことは誰だって考えてみればわかります。



ソーシャルワーカーが現場に立つ際に生じる「他者を理解しようとすることで生じる苦痛」とは

誰かを理解しようとする行為は、自分の容量の中に他者を収めていこうとする(理解できるカタチに変容させる)のではなく、自分の容量を自覚し、拡張した上で、相手を包み込もうとする行為、つまりは(自分が変容していく)という行為である

と記した通り、『(自分が変容していくこと)を常に「場」から要求され続けることによる苦痛』であるわけです。



3.苦痛を変換するプロセス、方法論を持とう


『(自分が変容していくこと)を常に「場」から要求され続けることによる苦痛』がソーシャルワーカーに常に課されているのだと考えると、正直私自身はしんどいです。


だからまずは考え方を変えればよい、というのが個人としての対処法です。
苦痛を変換するプロセス・方法を考え、身体に叩き込めばいいわけです。



それにはまず、「定義化」が必要だと考えます。


本エントリでは、「他者を理解しようとする際に生じる苦痛」について記してきましたが、そもそも「他者を理解する」ということへの定義が自分自身の中になければ、その行為を考えること自体があまり意味を持たなくなってしまうのです。


定義は出発点であって、それが不明瞭だと全てはあやふやものにしかなりません。



例えば「成長」という言葉ひとつとっても、自分自身が「成長した!」と思うときはどんなときか、というのは、自分自身が定義してあげなければ、全ては一時の感情の振れ幅に左右されるものになってしまいます。


私は、別に人がものすごい好きなわけではありませんし、献身的ハートなんてナッシングな自分が、この仕事を続けている理由は「人は変われるんだ」っていうことを目の前にいる患者さん家族が身を以て教えてくれるからであり、そのことに何よりも惹き付けられる自分がいることを知っています。



であるからこそ、私にとっては
『(自分が変容していくこと)を常に「場」から要求され続けることによる苦痛』はもはや苦痛ではないのです。



『(自分が変容していくこと)を常に「場」から要求され続けること』ことによって、容量のちっぽけな自分に気づけた時、「自分はこの気づき(小ささに気づいたこと)によってもっと良い方向に変われるはず」と、プラスの材料として変換する思考プロセスを身体が有しているのです。



自分の中で色々なことに対して、緩やかな「定義」を決めておくことは大切だと思います。定義は出発点、その都度アップデートしてもいいわけなのですから。


わたしは、職業的な価値観は、個人的な価値観という根から派生するものだと思っています。個人的な価値観がおぼろげながらも見えているのであれば、職業的価値観と個人的価値観のどの部分が繋がっていて、なんか変だな、ヤバいな自分、と思った時に、どの繋がっている部分を点検すればよいかということがわかるのだと思うのです。


そういった意味で、他者を理解しようとする行為と並列で行われる自分の容量について考える(気づかされる)ということは、職業的価値観と個人的な価値観のボーダーラインが非常に難しいものだと思います。でも、だからこそ、苦痛を伴い、かつ、そこには得られるものが多い、学びの宝庫なのだと思っています。


容易に結論がでないこと、結論なんて存在しないかもしれないことを考えつづけることで、みえるもの、気づくものがたくさんある。



私は日々、そう考えていきたいと思っています。





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