ソーシャルワーカーとして患者さん家族に値踏みされる時間が教えてくれたこと
公開日: 2012/02/20
入職して2年目のことです。少しずつ仕事にも慣れてきた頃「値踏みされる時間」というものの存在について気づき、考える機会がありました。今振り返れば、この気づきが、自分自身をソーシャルワーカーとして、小さなステップアップをさせてくれたのだなと思っています。ここではソーシャルワーカーが患者さん家族との間に援助関係を築いていく過程に存在する「値踏みされる時間」について、以前に記したエントリを改訂するカタチで記していこうと思います。
1.「値踏み」とは「評価する。見積もる。」という意味
新人時代、わたしは面接に入る度に患者さん家族を目の前にして、「怖い。恐れ多い。申し訳ない」と日々思っていました。
大学を卒業式したばかりの若造が、「専門家として、人生の先輩の生活上の問題の相談にのる」ということが、とうてい無理なことだと頭ではわかっていても、面接の場面ではひとりの専門職として患者さん家族と向き合わなければならないのですから、誰も助けてはくれません。
ちょこっと詰め込んだだけの知識しかない自分に何ができるのかがいつもわからず、怖くて、申し訳なくて、知っている制度の説明や情報提供に終始し、インテーク(初回)面接で患者さん家族に入院前の生活の様子等を教えてもらっても、それを患者さん患者の問題解決に、これからの生活にどう役立つものに変えて、患者さん家族に返していけるかがわからず、面接ってなんだ?援助ってなんだ?という日々を送っていました。
そんな中で、患者さん家族である患者さん家族から「値踏みされる時間」があることに気付けことが「援助関係というものは、ソーシャルワーカーと患者さん家族との協働作業の上に築いていくものなのだ」ということに気付くきっかけとなりました。
「値踏み」とは「値段を見積もってつけること。評価」という意味です。
インテーク(初回)面接において、患者さん家族の方から「窺うような、訝しげな視線」を向けられることがあることに気がつくようになりました。
ですが、同時に、面接が進んでいき、様々なことが明らかになり、一緒に解決していくべき生活上の問題に対し、互いの共通理解に至る過程で、患者さん家族から向けられる「窺うような、訝しげな視線」が影を潜めていくことにも気がつくようになりました。
私は、この視線の変化の過程こそが「値踏みされる時間」なのだと、新人時代に結論付けました。
つまりは、患者さん家族は、ソーシャルワーカーの一挙一動を観察しながら、「目の前にいる人間(若造ソーシャルワーカー)が、自分たちの生活上の困難や問題を話すに値する人間かどうか」ということを値踏み、評価しているのです。その行為は冷静に考えれば、当たり前のことです。そのことに自然に気づけるようになってきた頃には面接は怖いものではなくなっていました。
そのことに気付いてから、患者さん家族家族はみな、目の前にいる若造が、自分の生活上の問題を話すに値する人間かどうか、ということを、意識、無意識にせよ、値踏みしているのだ、ということを前提としてインテーク(初回)面接に入っていけるようになりました。
2.誰だって日常生活の様々な場面で相手を「値踏み」をしている
ここで少し話題が逸れますが、自分がショッピング売場でモノを売る店員の立場だとしたら、お客さんへ接客をする際、お客さんは店員のどんなところを見るでしょうか?ちょっと想像をしてみましょう。
お客さんは、店員のマニュアル通りの対応によって「あなたは自分にとって数多くの客のひとりでしかない」という無言のメッセージを受け取っているかもしれません。
(多くの客のひとりではなく、大切なひとりの客として、個別化して対応してくれているかどうかを値踏みされているかもしれません)
お客さんは、自分が知りたいことをきちんと教えてくれるかどうかをみているかもしれません。(その物事に対する専門知識を有しているかどうかを値踏みされているかもしれません)
お客さんは店員から商品に対する専門用語を連発されても、その知識がないので、なんのことだかさっぱりわかっていないかもしれません。(情報の非対称性という前提を考慮した上でコミニュケーションを図ろうとしているかどうかを値踏みしているのかもしれません)
お客さんは店員の「とりあえず売れればいい」というメッセージを感じて辟易しているかもしれません。
(こちら側の利益だけを優先するというメッセージを読み取り、この店員、店から買うべきかを値踏みしているのかもしれません)
などなど。これはソーシャルワーカーが患者さん家族と関わる際にも言えることだと思いませんか?上記のように、自分が日常生活において経済活動を行なう際にも、それを介してくれる人が、信頼に値するかどうかを多かれ少なかれ値踏みしているのだと思うのです。「値踏みする、される行為」は、日々様々な場面で行われていることなのです。
3.ソーシャルワーカーとして「値踏み」されているということに気づこう
「ソーシャルワーカーは患者さん家族の言葉、表情、声の大きさ、トーン、雰囲気、服装などの、ノンバーバル(非言語)のメッセージからいろいろな情報を読み取る」などとよく言いますが、それと同じように、いえ、もしかしたらそれ以上に、患者さん家族も、ソーシャルワーカーを見て、感じて、その人がどんな人かを推測して、「この人は少しでも信頼できそうか」ということを値踏みしているのだということを忘れないでいたいと思います。
ひとりの人間を、ソーシャルワークの援助の対象とした瞬間に、ひとりの人間であり、生活者であるその人が、途端に援助を受けるだけの「患者さん家族」と定義され、その定義により、他者とのコミュニケーションにおける基本的で当たり前なことが、専門用語に置き換えられる、(まずは患者さん家族との信頼関係形成を、というふうに語られるように)というのは、あまり好ましくないことのように思うのです。
まずはソーシャルワーカーとして、「患者さん家族との信頼関係形成が大切」と言葉にする前に、人と人の間に築かれる信頼関係というものが、日常生活において他者とコミュニケーションをする際に、どのような要素によって形成されたり、深まったり、はたまた崩れたりするのか、ということを考えてみることは、最低限自分に課すべきことであるのかなと思っています。
そうでないと、援助関係における信頼関係の構築と、日常生活圏における他者との信頼関係の構築との違いを、自分の中で整理することができなくなってしまいます。
「ソーシャルワーカーと患者さん家族間の援助関係における信頼関係の構築」
「日常生活圏における他者との信頼関係の構築」
上記の二者の間には、明確な差異があります。
自身の中でそれを整理するための簡単なトレーニングとして、例えば「自分が親や恋人や友人を信頼していると感じるとき、その理由はどんなものがあるか」ということと「世間一般で専門職と呼ばれる人に対して、信頼していると感じるとき、その理由はどんなものがあるか」ということを書き出して、比較してみるといいかもしれません。
世に出ている教科書や、書籍は上記のようなことは教えてくれません。だから自分で考えて、気付くしかないのです。
「患者さん家族との間に信頼関係(ラポール)を築く」
この一文は、個々のソーシャルワーカーが皆、実践に引き付けた言葉で語れなくてはならない一文だと思います。
精神科医の熊倉信宏氏の著書「面接法」にこんな一節があります。
一人の平凡な人間が、専門家であると名乗って、もう一人の人間の相談に乗ること。それが面接者の仕事である。
本当に重く思慮深い一言であると思います。
「まずは信頼関係が大事だ」と言葉にするとき、「はて、なぜ、どうして、信頼関係が大事で、その信頼関係はどのように築かれ、育まれていくものなのか?」という問いに対する言葉をきちんと持つことが出来るソーシャルワーカーでありたいなと、私は新人時代に、値踏みされる時間に気づくことで、そう思い、考えることが出来ました。
ソーシャルワーカーなら誰でも、患者さん家族との間に信頼関係を築く、という言葉を考えるきっかけとなったもの、経験が必ずあると思います。
私自身ももちろんそうですが、多くの新人ソーシャルワーカーの方たちには、新人時代の経験を出発点として、そこで得たものを大切に熟成させていくことを忘れないでいてほしいと思います。
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