孤児院は明治時代の”ソーシャルベンチャー”だったのか?

公開日: 2015/06/02 ソーシャルアクション 社会起業 歴史


「人物でよむ近代日本社会福祉のあゆみ」読了。
「孤児院は明治時代の”ソーシャルベンチャー”だったのか?」という問いを得た。

本書に出てくる、明治時代、孤児院をはじめた岩永マキ氏の章にて、
墾田事業などで稼ぎ、利益を生まない孤児院の事業に投入したり、
篤志家やキリスト宣教師などから寄付を受けていた、などという記載を読むとなおさらそう感じる。


かつ、岩永の活動を新聞が取り上げ、その後内務省の予算がついた、ということを読むに、まさに、自らで「モデル」をつくり、行政に予算をつけさせる、もしくはモデル自体を行政にハックさせる、ということが行われていたのだ、と。

そして、その先が「法的に位置付ける」ということで、
たとえば児童養護施設は児童福祉法ができるまでは、法的位置付けがなかった。


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0.社会課題が見出される


1.志ある人がその社会課題に対して、社会貢献活動をはじめ、集団化する。

2.個人・集団・活動に共感する協力者があつまり、寄付者やパトロンなどがつく。

3.メディアがとりあげることにより「お金や人がより集まりやすくなり」活動が加速し、拡大する。

4.組織化された社会貢献活動の主体が、行政に働きかける(つまりは、こういった社会課題に対して、自分たちはこのようなモデルをつくり、それにはこれくらいのお金がかかるが、それが満たされれば、社会課題が解決、軽減する!と行政を説得する)ことによって、行政がお金を出し、財政安定化により、より多くの資源を活動に投入できるようになったり、他の活動主体が、同様のモデルによって、活動をはじめるようになる(その際、前例があるので、行政からの予算もつきやすいという状態にある)

5.法定化することで、より安定した資源として、複数、存在し続けるようになる。
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孤児院が児童養護施設になる歴史的な流れも、たぶん0-5の流れを組んでいる。


孤児院の場合は、0-5までにかなりの時間を要したけれども、近代化やテクノロジーの発達もあり、現代においては、0-5の時間的スパンは短くなったのではないか。

当時の孤児院は今でいうソーシャルベンチャー、社会起業であり、1の段階の主体は社会起業家であり、5の段階(つまりは、現代)において資源としての児童養護施設で子どもたちに援助をおこなうのは、サラリーマンとしての社会福祉従事者たち。

「自立生活運動史―社会変革の戦略と戦術 中西 正司 (著)」でいうところの、運動体と事業体という言葉を借りると、1-4の段階は組織が運動体と事業体をバランスよく内在していないと、5の段階までいけない(つまりは、次世代に確実に活動を継承できず、存在が消滅する、もしくは、かたちを変えて存続する)

けれども、5「法律化することで、より安定した資源として、存在し続けるようになる。」以降は、「安定して稼ぐ」ことができる事業体としての機能が優先され、運動体的性質は弱まっていく。なぜなら、必要がなくなるから。

児童養護施設はひとつの例ですが、孤児院が0-5段階を経て、法定化され児童養護施設として現在存在するように、同様に他の0-5段階を経てきたものをみてみると、法定化された(つまりは5の段階に入ってからの時間が長くなった)後、「どこかの時点」で、改めて、0-5の段階が弁証法的に生まれてくる時期がくるのではないか、とおもいつつ。


「どこかの時点」というのを、歴史的にみてみるとおもしろいかもしれないとも。



当事者運動、社会運動、ソーシャルアクションに興味関心のある方はぜひ読まれるといいと思います(社会を変えるには清濁併せ持つことが必要だ、ということがとてもよく理解できる一冊です)


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