ポスト・スティグマ vol5【創作小説】

公開日: 2014/04/09 CW 創作


………………………………………………………………………
前回までのあらすじ

T県M市で、1人の老人が孤独死した。
孤独死した老人、畑中は生活保護を受給しており、担当ケースワーカーであった不動雄一は、畑中から音信不通であった娘へ一通の手紙を託される。

同日、都内に住む畑中の娘、里美が、誘拐事件に巻き込まれたことが発覚。
事件同日の、畑中里美は、出張デートクラブの”オトコ”と会っていた。

「ワタシは、カレに 誘拐された」 

狂言誘拐の様相を呈した事件の真相は…!?

ポスト・スティグマ vol4

………………………………………………………………………



-1-

「過去は変えられないけれど未来は変えられる 
キミたちには未来がある。明るい未来が。」 


施設を出る日、施設長は、空に一瞥をくれると、 
ぼやくように、でも何処までも響くかのような声でそう言った。 
彼の視線を辿ると、空は透き通る水色で、音も立てずに鳥が飛んでいた。 
空高く舞う鳥の姿が、旅立つ自分の姿を映すかのようで、 
とても誇らしい気持ちになったのを覚えている。 


未来が、そこにあった。 
少しの不安と、それを打ち消す、未来への希望が。 


あれから、4年が経った。 



どうやら、翼はなかったようだった。もげてしまったのか。 
それとも最初からそんなものはなかったのか。 
翼のもげた人間は、地を這い、空を仰ぎ、憧憬の眼差しで見上げるほかなかった。 
いつからか、生きている人間にとって意味のあるのは、今と未来だけ。 
そう思い生きてきた。 



過去は人を形作ってきた大切なもの。 

だが、過去にどんな意味付けをしても、終わってしまったものに変わりは、ない。 

______________________


-2-

国立富士見が丘病院、精神科病棟 。


4人部屋の病室に存在するひとつのシルエット。 
窓から拭き抜ける風が頬を撫でる。 
日の照る時間帯でも、12月の空気は冷たい。 
母は光の射すガラス窓の方を向き、佇んでいた。 
シーツが射し込む光に照らされ、眩しい。 


母の横顔は感情のない人形のようで、その光景はずっと昔に、 
切り取られたシーンのごとく、いつからかずっとそこにあるかのようだった。 
そこが過去か今かの区別を与えることも許さないかのような圧倒的な存在感を持って。 


母は今、何処にいるのだろうか。 
垢にまみれたあの頃か、街の魔力に取り込まれたあの頃か。 
どちらにせよ、それは過去に違いなくて、暖かさのまるでない母の横顔が、 
確かにそれを教えた。 


道中で買った名前も知らない花を、母の前に差し出す。 
表情のない瞳に、数回の瞬きが生まれて、花びらを掴み、そっと視線を上げる。 


また、こっちを見ている。 
まだ慣れないんだ。いつになっても慣れやしない。 
母の瞳に映っているのは 、幼い頃の、母を守れず、自分を呪った少年の自分だった。 


誰かを憎むように、あの頃の自分が、瞬きもせずにこっちを見ていた。 
抜け殻のような母の中に、あの頃の自分は確かに生きていて、 
母の瞳には、やり切れない想いを宿した自分がいた。 


過去は、そこにあった。 
確かに、そこにあった。 

逃れられない。 
変えることも出来ない。 
目を背けることもできない。 

過去は、泥沼のようだ。 
足を踏み入れたら抜け出せない。そんな場所。 


大声で叫びたかった。 
でも、声なき声はかき消され、あの頃の自分の泣き声が聞こえた。 
泣き止まない。耳の奥で、少年は泣いていた。雨が降っていた。 
降り止まない雨だった。降り止む予定のない雨だった。 


「変えたいんだ。」 


あの頃の少年が、こっちを向いて叫んでいた。 
未来は、変えられる。そう信じていたかった。 
でも、目の前にある現実は、この先も、変わることなんてない。 


母の手から、花びらが、ひらひらと地面に落ちた。 

切り取られたシーンは変わることなく、 
表情のない横顔が光を映して、白く輝いていた。 


________________________________


-3-


初仕事だった。 


「好きにしてもいいが、よく考えてやれよ。 
どうすれば、カネになるのか。それを最優先に考えてやってくれ。 
時給+歩合制。最初はデンバーからスタートだ。はい、ここにサインして。」 


雑居ビルの3階に設けられた事務所。 
男は慣れたトーンでそう言うと紙切れをこちらに差し出した。 


「まずは見極めが肝心だ。相手が、遊びと割り切っているか。 
カネが切れて、遊びを止めることのできる人間か。 
中毒に陥って、借金してでも続けるか。 
だいたいはこの三パターンだ。 
ヤリたいだけの女だったら、小出しにした方がいい。 
じらして、カネの根を引っ張る。これがまたおもしろいんだ。 
以外と頭を使うんだよ。この仕事は。 
ナリがよければいいってもんじゃない。ここも求められるんだよ。」 


不自然に白く輝く歯が、季節はずれの日焼けした顔に不釣り合いな男は、 
そう言うとわざとらしい仕草で、こめかみに人差し指をそっと当て笑った。 


「採用試験」は即採用。 
履歴書なんて必要ない。不必要な過去は意味のないもの。 
この街は好きではないが、そんなこの街のやり方だけは嫌いじゃない。 


話は続く。 


「雰囲気、身なり、言葉遣い。話の内容から、階級を見極めるんだ。 
服装は上等でも、実際はそれに見合わない生活レベルなんてことはザラにある。 
お洒落決め込んでるのは、そこに入れ込む気持ちの表れだ。 
まずは言葉で相手を気持ちよくさせろ。言葉で心を愛撫しろ。」 


男の真剣な眼差しと言葉のギャップに思わず吹き出しそうになるのをこらえて、頷く。 

目線を逸らし部屋全体を改めて見渡す。 
コンクリート張りの部屋からは空は見えず、 
まるで今の自分の心模様を映しているかのようだった。 


何で俺はこんなところにいるんだろうか。 
目的など、ない。 「なぜ」などという問いは今の自分には意味のないことだった。 



________________________________


-4-

眠らない街。 


18で施設を出てから、ずっとこの街で生きてきた。 
眠らない街のネオンは、そこに吹き溜まる者たちの垢を 
まるでダイアモンドのように輝かせていた。 


この街だけで許されるルールはそこで生きる人間の中に錯覚を生み、 
まどろみ、足を抜け出せなくする。 
足を抜け出せたとしても、行く先なんてなかった。 
そんな人々が、自ら進んで足を踏み入れ、この街に沈んでいった。 
人々を飲み込んだ街は、まどろみ、空との境界線を消していった。 


母も、この街の住人だった。 
父親のわからない子供一人とともに女一人、 
この街で、垢にまみれて生きていた。 


母は18で俺を生んだ。 
水商売を初めて半年で店のナンバーワンになった。 
母はこの街で、自分の身の垢を本物のダイアモンドに変えようと必死だった。 


店で用意されたマンションは3LDK。 
二人で住むには十分な広さだった。 
母の衣装室で遊んではよく怒られ、よく泣いていた。 
ベッドだけがぽつんと置かれた寝室の窓からは 
うっすらとオレンジ色を灯す東京タワーが見えたのを覚えている。 


店までは支配人の男が黒光りした外車で母を送迎をしていた。 
他店からの引き抜きを恐れてのこと。 
母は、店にとって、まぎれもなくダイアモンドのような存在だった。 
母を迎えに来る浅黒い顔をした歯並びの悪い男のぎらついた目は、 
この街で生きてきた者たちが持つ独特の色を灯していた。 


小さな子供を抱え、この街で生きて行くには空気が悪すぎた。 
今なら、それがよくわかる。みな、何かを捨て、その代償に得ている成功。 
この街に昔からある方程式。きっと母もわかっていたはずだ。 

「子供なんて邪魔なだけ。」 

周りは俺を早く施設に預けろと言ったらしいが、 
母は断固としてその言葉を聞き入れることはなかった。 


母はカレーが得意だった。 
1人の夜はほとんどだった。 
置き手紙と、カレーのいいにおいは孤独を和らげた。 


「純一へ 
お母さんはお仕事に行ってきまーす。 
夜ご飯はカレーを温めて食べてね。 
ちゃんとガス栓を閉めるのを忘れずにね。 
早寝早起きは三文の徳。夜更かしせずに早く寝ること。 
約束してね。 
お母さんより。 」


夜はいつも独りだった。寒い夜、毛布を被って寝た。 
東京の夜景は、いつでも街を照らしてたけれど、孤独だった。 
温もりが欲しかった。寂しかった。 でも、愛されていた。それだけが救いだった。 


街の外の母は、母親だった。どこにでもいる母親だった。 
あの街のネオンが憎かった。 

あの光に照らされている限りは、逃れられない運命。 
あの頃の自分には、母を連れて、目の前に続く道から、逃れるだけの力がなかった。 


母のことを愛していた。 
いつか、母を連れてこの街を出たかった。 


でも、あの街が、それを叶わぬ夢とした。 
あの街が、母を殺した。魔法は解け、母のダイアモンドは灰になった。 
間に合わなかった。 
子供であることを呪った。早く大人になりたかった。 
母を守れる力のない自分を呪った。 


俺が8歳のときだった。母は変わっていった。 
家では一切酒を飲まなかった母が、家で酒に浸った。 
理由はわからない。精神を患ったようだった。 
奇声を上げ、泣きじゃくる母の声が今も耳から離れない。 


この街の魔力は、取り込むことができなければ、 
取り込まれ、浸食されてしまう。 


母のコップは溢れてしまった。 
こぼれた水は、戻らない。戻らなかった。 
商品価値のなくなった母のダイアモンドは輝きを失い、垢となった。 
垢はチリとなり、灰はこの街で燃え尽きた。 


街も、人も冷たかった。 
母が使いものにならないとわかるとあっさり切り捨てた。 


母は、壊れてしまった。 


「純一。おかあさんを、ユルシテネ。」 


東京に雪が待った日。 
芸術的な風景である白。それを映す刃物が俺に向けられた日。 
母は、自分を壊してしまった。 


この街の魔力は、 
最後には彼女を飲み込んだ。 


オレは、何もできなかった。 
守れなかった。母を。 
逃げることができなかった。なにもかもから。 


隣の住人の通報により、俺は保護され、 母は精神病院に入院することになった。 
その後、役所の人間の世話になり俺は施設に入れられた。 


最初は、施設長が紹介してくれた自動車部品の製造工場に勤めた。 
一生懸命働いた。一人で生きていきたかった。一人で生きていけるその喜びが 
自分を突き動かした。成功して、母を連れて帰る。 


そして、あの街に復讐を。 



________________________________


-5-



不運だった。 
工場長が病で倒れ、舵を失った工場は、蛇行運転を繰り返すかのように 
徐々に、落ちていった。 
生きていくためには、この街のルールに従うしかなかった。 


チャットボーイ 
出会い系のサクラ 
ホストクラブのボーイ 


つくづく思う。 
人の欲望はカネになるのだ、と。 


カネがなければ、抜け出せない。 
抜け出すためにもがけばもがくほど、足は沼に沈んでいく。 
過去と同じように。囚われて、落ちていく。 


今回の仕事、はじめての客は、40代の女だった。 

「ジュンです。22歳です。 
入店してまだ一週間ですが、一生懸命、奉仕させていただきます 。
よろしくお願いいたします」 


「禁煙席、二人で。」 


「そのピアス、かわいいですね」 


「ツグミさんの雰囲気にすごく合ってるよ。」 


「ツグミさん。契約時間は終了。 
でも、延長だ。僕と一緒に行こうよ」 



はじまりは、突然で、ときに理由なんてない。 


12月の初め。 
街はイルミネーションで彩られ、浮き足立つ。 
またあの季節がやってくる。 
母に刃を向けられた日。母が壊れた日。 
あの日は雪が振っていて、うっすらと雪化粧をした東京の街が、窓の外にはあった。 


変えたい。この先に続く道を。 
オレは、変われるだろうか。 
この先の道を、変えることができるだろうか。 


あの頃の自分の泣き声が聞こえた。 
泣き止まない。耳の奥で、少年は泣いていた。雨が降っていた。 
降り止まない雨だった。降り止む予定のない雨だった。 


12月。あの季節が、またやって来る。 


奥歯をかみ締めると薄っすらと血の味が口の中に広がるのがわかった。 
生きている。これが、生きていると言えるのだろうか。 
メシくって、糞尿たらすだけの人生に意味なんてない。 



「この街に、復讐を」 


人生の意味、薄っぺらい存在理由。 


慢性と惰性でこの世に遷ろうかのような瞳をした女を目の前にして 
自分自身にそう言い聞かせて、そっと、彼女の手を握った。 


「モウ、アトモドリハ、デキナイ」 



耳奥で、子どもの泣く声が聞こえた。 
あの頃の自分の泣き声が、耳に響いて仕方なかった。 



もう一度強く奥歯をかみ締める。 
声は次第に遠のき、消えていった。
  • ?±??G???g???[?d????u?b?N?}?[?N???A