ソーシャルワーカーとして、クライエントのパーソナリティを断定することによる弊害について考える

公開日: 2013/07/27 MSW SW解体新書制作委員会 思索



このクライエントはちょっと不思議だ。
このクライエントは理解力がいまいちだ。
このクライエントは……

日々、このようにクライエントのパーソナリティに言及していませんか?

当ブログでは、ソーシャルワークに関する様々な事象を言語化することを試みていますが、唯一、言語による明確化・定義化の必要がないと考えるのは、クライエントのパーソナリティを断定することです。


本エントリでは「ソーシャルワーカーとして、クライエントのパーソナリティを断定することによる弊害について考える」と題し、表記について述べていこうと思います。


1.なぜ、クライエントのパーソナリティの断定は不要なのか?


援助者が、クライエントから感じ得る違和感を言語化することは大切なことですが、それが、パーソナリティの断定までいくのだとしたら、それは援助過程においては必要のないことです。


その理由は、「こういう人だ」というクライエントのパーソナリティーへの断定は、それ以後の援助過程におけるクライアントの変化や機微を「些細なものだと切り捨てて構わない」という思考を援助者に許す根拠となり得るからです。


そしてまた、援助者側の語彙やイメージが貧相であれば、その貧相な枠にクライエントは強引に押し込められることになります。



2.援助場面におけるクライエントとは、”クライエントが語る主観的事実と、客観的事実の積み重ねの集合体”である。


援助場面におけるクライアントのパーソナリティを、援助者側が有する語彙やイメージの形容詞で断定せず、クライエント=”クライエントが語る主観的事実と、客観的事実の積み重ねの集合体”として対峙すべきだと思うのです。


人は、常に移ろい揺らめきゆく存在だと構えることが肝要だと考えます。
ですが、これは本来人間にとって、恐ろしいことでもあります。


人は、なんだか得体のしれない不気味なものに、恐怖を覚えます。
実態のある存在という認識ができてこそ、安心し、適切な距離を保ちながら、どう対するかということを考えることができます。なので、言葉でラベリングしたり、形容詞を付して「こういう人だ」と断定するのです。


他者のパーソナリティーを断定することにより、得体のしれない不気味なものは、安定した実態のある存在へ昇華します。これで、安心して、他者に対する方法を考えることができるのです。


ですが、援助者(ソーシャルワーカー)と、クライエントは、特定の目的を達するための限定された特殊な関係性を構築するわけですから、”援助者(ソーシャルワーカー)がクライエントのパーソナリティを断定することで、自らがクライエントに安心して対峙できるようにする”という事項の優先順位は最も低く見積もられるべきです。というのは、これは、援助者側有意の思考であるからです。


3."人は、常に移ろい揺らめきゆく存在だと構えること"が大切だ


私にとって、クライエントは、○○さん、○○さんの娘さんというように、固有の名前以上でも以下でもありません。


クライエントのパーソナリティの断定なんぞせずとも、”クライエント=クライエントが語る主観的事実と、客観的事実の積み重ねの集合体”として、対峙することで、様々な揺らぎや変化に気づき、その変化を、援助過程における「客観的事実」まで昇華することができるのです。


予想もしなかった言動をクライエントが為すと、狼狽する援助者がいます。狼狽するのは、援助者側のどこかに「クライエントのパーソナリティの断定」があったというだけであって、それ以上でもそれ以下でもないのです。


そもそも、他者を自分の言語イメージに閉じ込めておくことなんぞできないのですから、対人援助の場面において、「クライエントのパーソナリティの断定」を為すこと自体が馬鹿げているわけです。


クライエントの変化に着目し、それを援助過程に組み入れていくには、「人は、常に移ろい揺らめきゆく存在だと構えること」に自覚的である必要があります。


「過去エントリ:ナラティブ・アプローチ論:「こたえ」という表象物がもつ意味について考える」において、クライエントの自己決定における「こたえ」と表されるものについて、以下のように書きました。

人の気持ちや意思には、真なる意味で「こたえ」と言えるものはないと考えます。
「こたえ」は外部化し他者と共有できるものではなく、その人自身の中に、揺らぐように存在し、その揺らぎは、時間やその他の要素によって生まれ、その都度、「こたえ」という名の表象物は変わります。いや、変わるというか、そもそも、変わることが前提のように思うのです。


「こたえ」という表象物は、揺らぎ続ける気持ちや意思に楔を打つことにより生まれます。それは自らの内発的動機から生まれることもあれば、他者からの外発的な要請により「生み出される」こともあります。
 
そのことにソーシャルワーカーは自覚的でないと、ソーシャルワーカーである自分の存在を含めた様々な要素がクライエントにどのように作用し、「こたえ」という表象物を生み出したのか(他者と共有できる場まで浮上させたのか)という、「揺らぎ続ける気持ちや意思に楔を打つまでのプロセス」を想像することが難しくなるように思います。

クライエントの決定は「こたえ」ではなく、揺らぎ続ける気持ちや意思に楔を打ち込み、動きを止めた「こたえ」という表象物なのだと考えると、「こたえ」ではなく、楔を打つまでのプロセスに目を向けることができます。そして、プロセスにどのような意味を共有するかということは「こたえ」よりも大切にされるべきだと思うわけです。


援助者側が想定できない事態なんて、あって当たり前なのです。
だって、他者なのですから。


援助する側に立った瞬間に、クライエントという他者について、なにかわかった気になるのだとしたら、それは援助者の驕りもいいところです。


専門家ツラして、話をウンウンと聞いたり、制度を説明したり、サービスに結びつけたり、ということも、もちろん大切ですが、クライエントとの援助過程において、相手の変化に気づき、尊重し、物事をともにすすめていくことこそが、「クライエント・ファースト」の考え方なのだと考えています。


対人援助職の仕事は、常に、主体を取り違えるリスクを抱えています。

だからこそ、クライエントの変化を大切に、そして、尊重すべきだと私は思っています。


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