専門職としての学びのプロセスについて考える

公開日: 2012/09/29 MSW SW解体新书制作委员会 思索

新人看護師さんがやる気を無していく様、そして、ものすごく感度良く変わっていく様の両方を見て、どのような環境に身を置くか、ということがもつ意味を考える最近。


自分の経験も含めて言うと、その機関でどうしても自分がやり遂げなければならない使命(と思うこと)がないのであれば、環境を変えて、自分の仕事を見つめ直し、再定義する、ということを経験した方が、自分の価値やスキルの層の厚みが増すように思います。というのは、「変化する自分」への評価がしやすくなると思うからです。



「おお、仕事やりやすくなってきた」と思った頃が、きっと、環境を変えるタイミングを考える上での、ひとつのサインで、それは暗に「ルーチンワーク化」(を勝手に自分でしてしまった)された仕事たちが、自身を(悪い言葉で言うと)浸食してきたということであると思うのです。


自律力が高い人であれば、可能な限り、「ルーチンワーク化」させた仕事をアップデートし続けるので、学びは累乗的に増えます。しかし、それが難しいという自覚があるならば、ルーチンワーク化=点検必要性の少ない仕事が増えていくことが自分の能力を下降させるかもしれないという危惧を持つべきではないかと思うのです。


「ルーチンワーク化」させた仕事をアップデートし続ける=刃を常に研ぎ続けることができる、というようなものです。だからこそ、刃を研ぎ続けられない、錆び付かせていく怠惰性を有しているという自覚があるなら、「錆びさせない」ためのカウンターとしての装置を持つべきだと思うわけです。


研修とかそういうものは起爆剤にはなるれども、研磨剤的なものには決してならないのです。


「ああ、よく学んだ!明日からちゃんと研ぎ続けよう」と思うことと、「日々、研ぎ続けるという行為を継続できるか」ということは全く別問題。これを誤認していると、いつまでたっても、起爆剤中毒から抜け出さないのです。


結局は、ひとつひとつの行為を丁寧に遂行し、見直す時間を持つ、そしてときに他者と共有する、という地道な作業の循環でしか、「ルーチンワーク化された仕事」を研ぎ続け、そこから新しい学びを切り開くことはできないのだと思うのです。




そして、上記のプロセスこそが「専門職としての学びのプロセス」を体得することに他ならないのだと思っています。


上記が体得できないと、学びは、いつまでたっても断片的で、食い散らかしたものとしてしか残らず、なかなか援助者自身の「血肉」、つまりは「体系化」に至らず、終わってしまうのです。


学びを「断片的で食い散らかしたもの」で終わらせないために、「専門職としての学びのプロセス」を得ること。それこそが、長く、学び続け、現場で力を発揮し続けるための、一番の近道なのだろうと、わたしは思っています。



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