存在の肯定とはなにか?

公開日: 2015/01/22 思索


大昔に閉じたはずの傷が痛むときがあります。それは不思議と毎年決まって冬です。そして痛むたびに昔を思い出させるのです。

「存在の肯定とはなにか」ということを毎年この季節になるとふと思います。

「そこにいるだけでいい、そこに在るだけでいい」と言葉で言うのは簡単ですが、その意味を腹落ちさせるには、膨大な時間が必要な気がしています。もしかしたら生きているうちに腹落ちさせることはできないのかもしれません。


「そこにいるだけでいい、そこに在るだけでいい」を愛と言えばなんだか軽すぎて、存在の全肯定と言えば哲学のようで、手には馴染まないのです。



「自分が肯定してもらえた」と感じるときはどんなときでしょうか。
今のご時世、多くの人は「自分が出した結果」に対しての「評価」を「肯定」と読み替え、なんとか自己肯定感を得ているのかもしれません。

だから結果が出せない、社会に役割が見出だせないと感じてしまえば、それは「社会からの肯定がされていない自分」というところに人を追い込んでしまうのだろう、と。

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わたくしごとですが、中学、高校の頃、治療上の必要で、顔面に油性マジックで多くの線が引かれていたことや、顔はぱんぱんに膨れ上がり、顔の皮膚はまだらに剥がれ、ダルメシアンのようだった頃があります。

道行く人から異質なものを見る目で見られ、電車通学の途中、汚い言葉を学生から向けられたことも数知れず。

社会に存在する「異質な他者を異常だと思える程に排除にかかる空気」の存在に気付くことができたのは、恥ずかしながら自分がそのようなメッセージを向けられるという経験をしてからでした。

他者なんてそもそも自分と比べ異質であることに違いないのに、見た目や属性で簡単にラベリングできる異質を探しては、排除にかかる。

こういった社会の一側面があるということを、私は15歳のとき、申し訳ない程度に社会科見学程度に体験することができました。

この経験は私にとっては「経験のいいとこ取り」だったのだと常々思っています。世の中には、このようなメッセージを社会から浴びせ続けられている人たちがたしかにいるのですから。そしてそれはこれからも大きくは変わる気配が、今のところはなさそうです。いや、悪い方にかわっているのではないか、という感覚さえしています。

冬になると、閉じた傷が痛みます。
過去、傷がじんじんと痛むと、その痛みが収まるのを待つ時間、人生の少しの間、「異質な他者を異常だと思える程に排除にかかる空気」吸っていた頃を思い出してたのですが、それはいつも”思い出すだけ”で終わっていました。

帰り道、結果への評価ではない「自分が肯定してもらえた」瞬間ってなんだろうと、ふと思っては、家族や心許せる人たちと食卓を囲む場面が浮かんだ自分は、それなりにしあわせな環境を与えられてきたのだと思うと共に、やはり「機会の不平等」をどう均すのか、という人生のテーマがぐるぐると頭の中を回っては、こたえは出ない夜です。


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