「自分のことをわかってほしい」という気持ちに対して、どう応答するか?
「自分のことをわかってほしい」という気持ちは、「あなたのことを理解しているよ」という文字面通りの言葉ではなく、「自分のことをわかってほしい」という気持ちを受け取った他者が、それに応答しようとするためにとった言葉行動たちすべてによって、満たされていくのかもしれない。
昔から、「わたしはあなたを理解している」という自分に向けられる言葉に「雑で支配的コミュニケーション」だと感じることが多かった。それは、「理解した」つまりは「理解した(完了)」という、未来のコミュニケーションや関係を閉じる言葉に聞こえたからなのだろう、と。
「あなたは、変わったね」という言葉にも、「あなたは、変わったね(私の知らないあなたね)」という、自己の理解の範疇に他者をはめ込もうとする”人間の弱さ”のようなものをよく感じ取っていた。
人は知らないことわからないことに恐怖を感じる。だから、「あの人はこう。あの人は私のことをこう思っている」とラベルを貼っては、安心して、生きて行く。それ自体は悪いことではない。
ふとおもうのは、「わかるため」には、「聴くこと、問うこと(教えてもらうこと)」が必要で、でも、「聴く」のなかにある「 問う」は、その強度によって、相手の保護膜を優しくはがすか、破くか、のどちらかに傾く。それは、ときどき、状況と相手のとの関係性を自分なりにはかって、使い分けるほかない。
「自分のことをわかってほしい」という気持ちを、大切な人から受け取ったなら、「わかってるよ」ではなく、「わかりたい、でも、わからない(もっとわかりたい)からおしえてほしい」ということばや態度を返したい。
容易に、雑に、完了させてしまわないこと。それは、いちばん時間のかかるコミュニケーションだ。でも、そこから、関係性はひらいて、ひとつ深度の下がったコミュニケーションは、はじまるのだと思うから。
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