15歳の誕生日

公開日: 2015/01/18 思索


15年前。無菌室で意識がぼーっとする中、カラダ全身に冷たい感覚を得て、「ああ、まだ、生きれるんだな…」と思った。骨髄が移植された瞬間だった。

隣のじいちゃんが個室へ移動したり、向かいの中年男性が個室へ移動したり。その数日後、大部屋の扉が閉められ、その意味することを悟った。
その頃、それは非常に近くにあった気がした。でも、根拠の無い「自分だけは決してそうはならないんだ」というおもいが15歳の自分を支えていたように思う。



骨髄バンクを通しドナーの方に骨髄を頂いて15年目になる10/1は、15歳の誕生日だった。


自分の過去を踏み台にして、過去と今を接続させようともがきながら使命を探し、今を生きようとする人に惹かれる。

中学の2年間、ほぼ学校に行けず、高校進学も試験受けにいけず危うく高校浪人か?という状況であったけれども、中学の先生が業務時間外に、家まで勉強を教えに来てくれたり、内申点をちょろまかしてくれて、私学の高校に滑り込んで進学できた。退院3か月後に進学した高校1年時も休みまくって本当なら留年だったけれども、担任の先生がこれまたちょろまかしてくれて無事2年生になれた。

19のときに出会ったソーシャルワーカーさんは、「私が今後生きていく上で、自身の経験を語り、語り直す必要があるだろう」と見立ててくれ、多くの場所に連れ出してくれた。そこで私は自分の経験を語るという経験を得た。

そのおかげで私は自分では手が付けられなかった過去の経験と向き合い、それらを意味付けし、自分を立て直すことができた。19のときに私を助けた「言葉」は10年の時を経て、創造するべき未来を生み出す源泉となった。


いつだって、「これは自分の仕事ではない」と切り捨てることができたであろうものを、引き受け、手を差し伸べてくれた人たちのおかげで、社会からドロップアウトせずに来れた。手を差し伸べてくれた人たちの顔を思い出しては、1年に1度は必ず、そのことに深く感謝する。


こういった言葉たちは、過去に何度も何度も何度も頭の中で反芻し、他者に話をしてきた。なので、いつ、なんどきでも、他者に対し開示することのできる手持ちの言葉になった。それは=自分の屋台骨を形成する要素になったということだった。


15で終わっていたかもしれない人生を、”ゲーム続行”させてくれた未だ見ぬあの人に恥じない、いや、誇れる生き方をしたい。


頑張らなくては。
頑張らなくては。
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