なぜソーシャルワーカーは、ソーシャルアクションできないのか?中編

公開日: 2014/09/04 CSW MSW SCA 教育 思索



前回はこちらから読めます。


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ソーシャルワーカーは、社会において生活上の困りごとを抱えているクライエントの傍で、彼らの声に日々耳を傾けています。
当事者である彼らに一番近い場所で、社会の不条理を知ることが出来るポジションにいるからこそ、
社会でどのような問題が起きているかをリアルタイムで、当事者の次に知ることができるはずです。

だがしかし、なぜ、ソーシャルワーカーは目の前のクライエントの声を掬い上げ、
社会の不条理さを生み出している社会のシステムエラーを変えるために代弁し、
ソーシャルアクション(新規資源開発、政策提言)をすることができないのでしょうか?

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8年業界に身を置いていますが、ソーシャルアクションの例としあげられる事例を耳にしません。
大学でも、ソーシャルアクションという「言葉」しか学ぶことはありませんでした。

私は、そのことに強烈な疑問をずっと抱いてきました。
ソーシャルワーカーはなぜソーシャルアクションをおこせないのか?という問いをずっと問うてきました。以下、考えられ得る「できない」要因。


・機能主義ソーシャルワークで完結してしまう構造に問題がある(組織に属すが故、ソーシャルワーク機能<組織の機能、という構造がある)

・日本の組織風土の問題(個が突出しにくい、一点突破を組織が許さない。出る杭は打たれる)

・ワーカー・クライエントの二者関係で完結し、ワーカー・クライエント・社会システムという視点が欠如しているため、マクロの問題に気づけない。

・そもそもSwerの社会問題への関心が薄い(Swerの意識の欠如)

・社会問題に気づいているがSWerの言語化能力の問題で表出・発信が困難。
もしくは、SWer自体が自身の代弁機能をあまり重要視していない。

・職能団体の弱体・形骸化(SWerたちを牽引できるプレイヤーの不在。
社会福祉視界の加入率は約20%、PSWは14%、介護福祉士は5%。
トップダウンで現場から問題を集積することさえできない。)

他にも考えられることはあると思います。


「なぜ、ソーシャルワーカーはソーシャルアクションを起こせないのか?」
みなさんのご意見もお待ちしています。
ご意見はこちらから→http://goo.gl/Pk3DnU
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クライエントに対して”優しい瞳”で眼差すだけ済むなら楽な仕事です。
現場において、ソーシャルワーカーが、”優しい瞳”しか持ち得なければ、
クライエントとの関係性は、「寄り添う」等で表される二者関係で完結します。


「援助する・援助される」という二者関係は、真に対等にはなり得ないからこそ、”閉じて”いきます。
”閉じて”いけばいくほど、クライエントの背後に存在する社会のシステムエラーを”捉え見た”はずの、ソーシャルワーカーの”鋭い目”はいとも簡単に曇るのです。


なぜ、社会のシステムエラーを”鋭い目”で、”捉え続ける”ということが難しいのか?
それは、社会のシステムエラーを”捉え続ける”行為自体が、ソーシャルワーカーに「不全感」を与えるからだと私は考えています。
(尾崎新氏著:「対人援助の技法―「曖昧さ」から「柔軟さ・自在さ」へ」において、この辺りの言及があったように記憶しています)


誤解を恐れずにいえば、「援助する・援助される」という二者関係には、援助者側に「全能感」を付与する構造を有しているのです。
「全能感」により弛緩された援助者のカラダは、社会のシステムエラーを”捉え続ける”という「不全感の刻印」に耐えられないのです。


なぜなら、社会のシステムエラーは、
個々の援助者の力だけではどうしようもできないからです。

つまりは、社会のシステムエラーを”鋭い目”で”捉え続ける”こと自体が、
援助者に対し、「あきらめや不全感の刻印」を耐え忍ばせるように働くのです。


「どうせ、わたし1人では、何も変えることは出来ない。そうであれば、
社会システムから目をそらし、クライエントに優しい瞳で眼差し続ければいい」


耐え忍ぶことを避け、楽になるには、「目を逸らせばいい」
クライエントの背中にみえる社会のシステムエラーから目を逸らし
目の前にいるクライエントにだけ優しい瞳を注ぎつつけていれば
二者関係の中で、援助者は生き続けることができる。そっちのほが、楽なのです。圧倒的に。


社会のシステムエラーと、「援助する・されるという二者関係」は共犯関係にあります。
社会のシステムエラーを書き換えることができなければ、未来のクライエントは生産され続けます。

未来のクライエントは、援助者に「援助する・される」という閉じた二者関係による「全能感」を付与してくれる存在として出現し続けるのです。


バッティングセンターで明くる日も明くる日も同じ球を打ち続けて気持ちよくなっているのが、ソーシャルアクション機能を封じられたソーシャルワーカーで、バッティングマシーンをぶっ壊しにいけるのが、ソーシャルアクション機能を有したソーシャルワーカーのようなイメージです。



社会のシステムエラーと、「援助する・されるという二者関係」は共犯関係にあるという構造はどんな時代においても存在します。

ソーシャルワーカーがソーシャルアクションを為すことが難しい一番の理由は、『自らに「全能感」を付与する構造を有す”援助する・される”という閉じた二者関係を生み出している根源を壊し、システムを書き換える』という強烈な自己批判を有した行動に打って出る必要があるからなのだと考えている。ですがこれは、職業DNA的に拒絶反応を起こすようなシロモノでしょう。


私は”クライエントに寄り添う”という言葉を全肯定しません。
援助する・されるという二者関係を生み出す根源こそが、社会のシステムエラーであり、クライエントに寄り添い、彼らの背中に存在する社会のシステムエラーに、気づいているのならば、”寄り添う”に表される二者関係のみに帰結するのは、茶番でしかないと私は思うからです。


鋭い目で捉え得た”社会のシステムエラー”に対し、
ソーシャルワーカー各々にできることがあるはずなのです。


では、その「各々にできることとは、なにか?」


次号では、私が学生時代に体験した「ソーシャルアクションの原体験」を踏まえ、
お伝えをしていきます。


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