ソーシャルワーカーの専門性をクライエントはどのように”はかる”のか?という問いについて考える
公開日: 2014/09/04 CSW CW MSW 教育 思索 問いから言語化に至るプロセス
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キャリアも論文も学位も、対人援助職として現場に立った瞬間に、サービスの受けて側にとっては、ほとんど意味をもたないものになる。いや、無意味と言っても差し支えないくらいなものになります。
逆説的ですが、「専門家的である」ということではなく、「姿勢・態度」によってサービスの受け手側が「ああ、この人は信頼できるかもしれないな」と思った瞬間に「態度・姿勢を入り口とする専門性」が受け手側に与える効果は倍増するのだと思うのです。
つまりは、『専門性を推し量るための入り口』である「姿勢・態度」を対象者に向けることにより、
「この人は信頼できる人だから、この人の言うことであれば…」という思いがサービスの受け手側に「存在している」時点で、そこには「専門家として提供できるもの」を、サービスの受け手側に「最大限に提供するための状況」が生じているのです。
その結果、姿勢・態度が、サービスの受け手側の「専門性」のイメージを強化することになるのです。
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これは、個人的な体験がベースにもなっています。
専門職としての姿勢・態度について考えるとき、中学で入院をしていたときに出会った看護師さんたちを顔が浮かぶのです。
当時、治療の影響で食事が全然食べられず、唯一、豆腐が口当たり的にものどごし的にもなんとか食べられる、ということで、1日3食、豆腐が出ていた頃の話です。
病院食だから、採用されている豆腐も一種類だったようで、毎回パックで絹ごし豆腐が出ていました。醤油をかけても味はわかりませんでしたので、プレーンで食べていたのですが、それを見ていたある看護師さん(当時20代後半)が、
「毎日同じ豆腐で芸がないわよね。
美味しい豆腐買ってきたのよ!主治医の先生にも許可取ったからねー!」
どさっと、豆腐がいくつか、目の前に(笑)
正直、何を食べても味がしない状況だったので、味はよくわからなかったけれど、その看護師さんの気持ちが嬉しかったことを覚えています。
その後もぼちぼち食事が食べられるようになってくると、
「看護師さんたちのおごり!ここのご飯はおいしいんだよ!」と、出前を取ってくれたりしました(食事が治療において重要なものである、という専門家としての考えもあったろうけれども)
豆腐のエピソード以降、その看護師さんの振る舞いやケアに「信頼」を感じるようになりました。「この人なら、安心だ」という感覚。
それは、豆腐や出前をおごってくれたから(笑)ではなく、「自分が早くよくなるように、本当に真剣に考えてくれているんだな」ということを、その看護師さんから自分が全身で感じ取ったような感覚だったのです。
このとき、私の中には、
逆説的ですが、「専門家的である」ということではなく、「姿勢・態度」によってサービスの受け手側が「ああ、この人は信頼できるかもしれないな」と思った瞬間に「態度・姿勢を入り口とする専門性」が受け手側に与える効果は倍増するのだと思うのです。
という状況がありました。
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患者は、専門職である医療者たちの「技術」のほとんどをはかる物差しを持ちません。
情報の非対称性とか諸々語られることもあるけれど、単純に「はかる物差し」をもっていないのです。
では、「何ではかるのか?」
それは、自分に向けられた真摯で誠実なるメッセージなのだと思います。
真摯で誠実なるメッセージは、些細な言葉や行動の端々に現れ、対象者はそれを感じ取るのだろうと思うのです。
1人の人間として(+専門職としての能力を併せて)、想像力をもち、その人を個別化し、向き合うことができるかどうか。その先に、信頼は生まれ、信頼があるからこそ、専門職としての技術が患者に対して提供できるものは最大化する(もちろんそうでない超専門的な医療技術もありますが)のだと思っています。
だからわたしは、現場であまり自分が専門職だとか資格をもっているとか、そういう「記号」としてのメッセージは、あまりクライエントに対しては意味を持たない、という前提を常にもっています。
今でもその看護師さんたちとはやり取りをさせていただいていて、
師長になったりされていて「やっぱりなあ」という気持ちがしているのです。
湯豆腐がおいしい季節が、もうすぐですね。
わたしが、豆腐好きなのは、専門職という他者から向けられる「真摯で誠実なるメッセージ」を感じた原体験を思い出されるからなのかもしれないと思っている今日この頃です。
過去の経験と、今現在の気づきが接続し、新たな学びや気づきを生むことがあります。
表面的な知識だけではなく、自分を掘り起こし、気づくための材料を生み出すということもまたひとつの技術なのだと私は思っています。
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