【創作小説】とある老婆の日記-5【孤独論】
公開日: 2014/05/15 創作
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自分が生まれた日と同じ日に逝ってしまうなんて、本当にあの人らしい。
結婚を申し込まれたのも、夫と出会った日と同じ日だった。
夫はあの時代にしては珍しいロマンチストだったな、と今になって思う。
でも、出会った日がいつだったかなんて私は忘れていたわけだから、
夫のロマンチスト振りも、きっと骨折り損だったに違いない。
夫が死んで12年が経つ。
今はもう夫との思い出を「あの頃はね」と、言葉にしながら
思い出すことができる。幸せなことだ。
夫と一緒にいた頃は、夫との思い出を「思い出す」ことになるなんて思いもしなかった。
40年以上連れ添い、いつも隣にいた夫がいなくなって
初めて、思い出せることの幸せを感じるようになった。おかしな話だ。
思い出すことのできるたくさんの「思い出」それは夫と私が共に歩み、共に作ってきた記憶だった。 形はないけれど、私が忘れなければ、決してなくなることのない大切な記憶だった。
夫との出会いは、女学校時代に遡る。
学徒出陣で女学生として就いた工場でのこと。
夫との出会いは、今も脳裏に焼きつく光景の中に残っている。
衝撃と諦めと、覚悟を、そして淡い恋心が私の中に芽生えた瞬間だった。
軍服を身にまとい、焦土色に焼けた顔をした男が、
私にガラス瓶を手渡している。 白色の粉末状結晶。
うだるような暑さの中。白色の結晶は、太陽の下で、とても美しく映えた。
瓶の中身は「青酸カリ」だった。
渡された瓶の中の結晶が語るのは無言の覚悟。
「米兵が上陸したら、青酸カリを飲んで死ね」
あの頃、私たちはその教えを、なんの疑いもなく受け止める道しかなかった。
その道しかなかったのだ。
私は、自分に死を突きつけた人間と、恋に落ちたのだから、
なんてドラマチックで、ミステリアスなんだろうか。
今ならそう笑って言えるだろう。
あの頃、あのとき、あの場所で笑えていたなら、きっと時代は変わっていただろうに。
工場での作業の初日。
セミの鳴き止まぬ夏の日。大勢の人が私達をにこやかに出迎えてくれた。
しかし、人々の笑顔とは裏腹に、工場での作業は過酷を極めた。
私はみっちゃんと一緒に、初めて見る工場の雰囲気に戸惑いながら、
案内の指導員の後ろを歩いた。
大きな扉の中からは、耳の痛くなる凄い騒音が響き、
油の匂いの息苦しさに気分が悪くなる人もいた。
与えられた作業内容は3つ。
私たちは、板金工、仕上げ工、検査工に分けられ作業をした。
私にあてがわれた仕事は板金工だった。
ジュラルミンを裁断機や鉄の鋏で切り、やすりで面取りをしたり、
電気ドリルで穴を開けたりする作業だった。私は、初めて手にする電機ドリルに恐怖を覚えたものだった。
仕上げ工は、ボルトやナットの穴を調整したり、操縦席の風防を寸法通り、
やすりで削り、調えて磨いたりする根気のいる作業だった。
検査工は、半製品や材料の硬度をマイクロメーターで測ったり、
ノギスで寸法を測ったりして検査をする、精密な仕事だった。
検査工にあてがわれたみっちゃんは、とても正確に素早く作業を終えていた。
今思えば、彼女の手先の細かさは、このときにもう見て取れていたのだろう。
お昼は食堂に案内されたが、ここでも驚きの連続だった。
食堂内には、食事を終えた工員が、
空の食器を離れた処の籠に放り投げる音が鳴り響き、
私たちは、鳴り響く金属音の中、昼食をとった。
私達に支給された昼食は、豆かすとお米で作ったおむすび二つ。
だが、それも最初のうちだけで、すぐに一つに減り、
やがて田んぼで作った水臭い馬鈴薯と岩塩になった。
「欲しがりません。勝つまでは」
贅沢は言えない時代だった。
慣れない作業。慣れない環境。作業は過酷なものだった。
劣悪な作業環境から結核になる人がいた。
また、作業中に電気ドリルを落として足に大怪我をしたり、
裁断機で指を落としたりした人もいた。
だが、兵隊からは一切「しゃべったらいけない」と言われていた。
軍服を身にまとい威圧感のある男たちを目の前に、私たちは口を噤むしかなかった。
私たちは疲弊していった。口数は減った。
そんな中でも、みっちゃんは笑顔で私を励ましてくれた。
「着物を作る仕事がしたい」と話すみっちゃんの目には確かな「未来」が映っていた。
未来に抱く希望と、それを支える笑顔。
みっちゃんの存在は私を勇気付けてくれた。
彼女がいなかったら、私は挫けていただろう。きっと。
「私達はお国の為に働く戦士であり、大和撫子だ」と、
拳を握り締めたのを今でも覚えている。
今聞けば、馬鹿げている精神論だが、あの頃の私にとって、支えてくれるものは一つでも多いほうがよかった。
誰もがそうだった。生きていくために。支えが必要だった。
そうでなければ、生きていくことができなかった。そんな時代だった。
私たちは、戦闘機の「足」を作っていた。
そのときに頂いたのが、人生で最初で最後の「給料」だった。
労働の対価として金銭を得ることの悦びを生まれてはじめて知った瞬間だった。
戦争は、私に、私たちの人生に大きな影響を与えた。
あの夏の日。太陽の光に照らされた白色の結晶。
男は、私に死を突きつけた。
死を突きつけられ、私は恋をした。
そして男は、夫になった。
夫はとても優しい人だった、
甘いものがとても好きで、一緒に巡った甘味どころは数え切れない。
彼はいつも笑顔だった。
私が何をしても笑顔で、暖かく見守ってくれた。
いつだって、夫は私の支えだった。
支えがなければ生きていけない時代だった。
彼は確かに、私の一番の支えだった。
時代が時代だったにせよ、そんな夫にとって、齢14,5の女子に、
「死」を突きつなければならなかった現実は、辛く悲しいことだったに違いない。
あの日、瓶を渡す彼の手は震えていた。
今となっては、あの時、夫が何を思っていたのかを聞くことはできない。
聞いたとしても、話してはくれなかっただろう。
戦争は一体人々に何を残したのだろうか。
得たものなどあったのだろうか。残ったのは悲しみだけだったと私は思う。
でも、戦争がなければ、夫とはきっと出会うことはなかっただろう。
人生とはなんだろうか。
あの日以来、私は考え続けている。
でも、未だに答えは見つからない。
夫が死んで、12年が経つ。私はまだ生きている。
あの日「死」を突きつけられた日の記憶は、生き続けている。
そこからはじまった、夫と共に歩んできた記憶も、生き続けている。
人生とは、歩んできた道の後ろに、
ふと気がつくと出来ている足跡のような
ものなのかもしれない。
その足跡に気づいてくれる人が、きっとその人の存在を、
記憶の中に留めておいてくれる。
あまり難しく考えるのはやめにしよう。
わたしは、私の足跡をしっかりと残せるよう明日も生きていこう。
きっと誰かが見つけてくれる。
そして、そのときに笑ってくれたら最高に幸せだ。
そうしたら、最高に幸せな人生だったと言える、きっと。
そう。それでいいんだ。
誰かが笑ってくれるよう、誰かの楽しかった思い出に笑顔で残るよう
明日も笑って生きていくことにしよう。
夫に感謝しなければいけないな。
あの世に行ったあとも私のことを見守ってくれている。
そんなことに改めて気づいた今日。
「今でも私は、あなたを愛していますよ。」
仏壇の写真の中の夫の瞳が潤んだ気がした。
ふと、目の前が曇る。
泣いていたのは夫ではなく、私の方だった。
vol6に続く