ナラティブ・アプローチにおける「言語化機能」について考える

公開日: 2012/07/21 MSW 思索 自分史

私が「言語化」にこだわるのは、「言語化」によって自分の気づきが積み重なり、それが自分を支えてくれる屋台骨になるということを学生のときに考えたからでした。


先日、大学で「医療ソーシャルワーカーの仕事」について授業をさせていただく機会があり、上記についても少しお話をしました。
(いずれ、逐語録的に話したことをアップできればと思っています)


本エントリでは、ナラティブ・アプローチにおける「言語化機能」について考えると題し、私個人の経験を踏まえ、記していきたいと思います。



脱・経験至上主義



19-20歳以前の自分は、「経験こそが全てだ」と考えていて、他者と異なる経験という特殊さ(スペシャル)をどれだけ保有しているか、ということこそが、「わかること」を増やし、その結果、自分が高められると考えていたのです。


21歳の頃、『他者と異なる経験という特殊さ(スペシャル)』なんていうものは、主観的なもの過ぎて 、どんな経験だろうが、経験した自身がそう思えば、いくらだってそう位置づけられるものだということに気づく機会があり、


同時に、自分の持っている「尺度」の貧相さに気づき、ものすごく恥ずかしくなったことを思い出します。


自分の持っている「物事の価値を図るための尺度」を磨いていくには、「経験」とセットで「言語化」が必要なのでは、という仮説を21歳のときに立てました。


「経験」は時間の経過と共に、過去のものになりますが、「言語化機能」を更新していくことで、最新の「言語化機能」が、過去になりゆく経験から、常に新しい知見を生み出してくれる。


「言語化機能」が更新され続ける限り、経験という持ち物から得られる知見には限界がなくなるのでは、と考えたのです。




言語化機能は更新されていくもの



「あの頃はああ思っていたれど、それからこういうことがあって、今はこのように思っている」という文脈で語られる物事は、更新された「最新の言語化機能」が、過去の経験から、新たな知見を生み出している、と読み替えられると思うのです。


『「言語化機能」を高め、更新できるようになることで、過去の経験という遺産から、常に新たな知見を創出できる。』そう自身の中で定義ができたとき、「言葉にすること・できること」にものすごく惹かれる自分がいることに気づいたのです。


極端な話、1の経験から1の知見しか得られないとしても、言語化機能が更新されることで、過去になりゆく1の経験から、2つ3つと知見を創出することができるようになるのだと思うのです。

でも、言語化機能を更新していく過程において「時間」や「(社会的な)役割」がという要素がどう影響をするか、ということについて考えられるようになるまでには、時間がかかりました。

言語化にも段階があると考えていて、「とりあえずの言語化」という「感じた違和感、気づきをキーワードで並べて、ざっくりと見える化する」というものについて、自分は「言語化のラフを描く」ようにイメージしています。とりあえずラフが書ければ、その後の肉付けもやりやすい、そんなイメージです。


ナラティブ・アプローチにおける「言語化機能」について



そして、高次の「言語化機能」こそが「経験の語り直し」だと考えています。


更新された言語化機能により、経験から知見を得るのみではなく、「自身の経験に付する意味付けを書き換える」という言語化の高次機能が生まれる。


上記の論が私自身の援助者としてのナラティブ・アプローチ論の根幹を成しています。


聴くということと共に「語る」ということ、について考えること。
そして、援助者である自身の言語化機能について、かつ、目の前にいる対象となる人が有している言語化機能を「見積もる」ということについて、考えを及ぼしてみること。


上記について、もう少し、思考を深めていきたいと考えています。


【関連エントリ】
ナラティブ・アプローチにおける「語り直し」について
ナラティブ・アプローチにおける「舞台化された身体」について考える
・ナラティブ・アプローチにおける映し鏡としてのソーシャルワーク機能について考える




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