思いやりとは何か?

公開日: 2015/11/24 コミュ論 思索

現場15年越えのソーシャルワーカーの人と話した際に思ったことを備忘録的に。
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「自分がどのようなポジショニングをその場その時でとるかに自覚的で意識的である」他者から向けられたコミュニケーションのベクトルの対象になるとき、とてもあたたかい気持ちになる。これはある一定のケア的効果があるようにも 思う。一言で言えば、「おもいやり」、なのかもしれない。



と、ともに、そういった人は日々、自分に向けられるコミュニケーションのベクトルに対する意味について、ある一定の思考を都度割いている人なのだと想像するし、だからこそ、自分の能力を可能な限り総動員して相手の置かれている状況を想像した上で、コミュニケーションのボールを投げることができるのだろうと思う。そして、そういった人には概して「余裕」があるようにみえる。常にある一定の「スペース(余白)」がある。


コミュニケーションというのは、相手の現状(A)から移動してほしい未来の状況(B)に、どうしたら動いてもらえるかを考えることからはじまるように思うのだけれども、そこにケア的視点がなければ、相手をコントロールしようとする「自分本位の雑なコミュニケーション」となり、それはときに非常に支配的なもの化し、相手の力を削ぐディスエンパワメントな結果を生み出すのだと。
そんなとき、おそらく、ボールを最初に放る側には「スペース(余白)」がないのだろうと思う。


非対称的な関係であることを決定づけられた援助場面において、相手を対象化し、コントロールしようとする(してしまう)ことは、少なくない。ソーシャルワーカーであれば、ハッと思い起こされるケースの1つや2つがあるだろうと思う(もちろん自分も例外ではない)

他者をコントロール(管理・支配)しようとする意識の下には、なにかしらの恐怖や焦りがある。そのことがわかっていると、他者から管理・支配的なコミュニケーションを向けられた時、「相手には余裕がないのだ」と想像することができ、自分に余裕さえあれば、相手の管理・支配的なコミュニケーションを、もう一段上のメタなやさしさで包み込むことができるようにも思う。それができると、たぶん、他者のいろいろなことに寛容に、生きていくことができるように思う。

「ありがとう」、「おつかれさま」、「ごめんなさい」

こういった言葉が言えなくなると、余裕がなくなりはじめているサインだよね、余裕がないと相手を思いやれないよね、という小学生でもわかる話に落ち着いた先輩との話でした。

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