「安くて、うまくて、早い!」”吉野家化"するソーシャルワークの専門性
先日某大学の先生と話をした際に、医療におけるソーシャルワークの疾患志向についての話をしました。
医療であれば、例えば、がんやガンのターミナル等、そういった疾患に自らの「専門性(と言えるかどうかは私は疑わしいと思っている)」を見出だすというのは散見されますが、ソーシャルワーク領域においては、それ以前に「ソーシャルワークの専門性」という共有可能な文脈が非常に弱い、という前提条件があることについて、疾患に自らの専門性を見出だしたかのように振る舞う人たちは、言葉にすることは少ないように思います。
「ソーシャルワークの専門性」という共有可能な文脈が非常に弱いからこそ、専門職集団の中でやり合わねばならない医療分野のソーシャルワーカーたちは疾患等に自らの専門性を見出だすかのような言動をすることが多いように思います。学会発表とかのタイトルを眺めるとそれが顕著だと感じますし、研修の内容を見てもそのように感じます。
・がん(オンコロジー)ソーシャルワーク
・難病ソーシャルワーク
・救命救急ソーシャルワーク
・緩和ケアソーシャルワーク
・難病ソーシャルワーク
・救命救急ソーシャルワーク
・緩和ケアソーシャルワーク
など。
これは、
・チキンカレー
・ポークカレー
・キーマカレー
・ポークカレー
・キーマカレー
と構造的には似ていてます。
誰も「カレーっぽい」ものはつくれるけど、「カレーって何かを説明できない」ので、チキンとかポークの力を借りて、それっぽく口にする。
誰も「カレーっぽい」ものはつくれるけど、「カレーって何かを説明できない」ので、チキンとかポークの力を借りて、それっぽく口にする。
領域・疾患別にソーシャルワークを考えるにあたって、「ソーシャルワークとは何か?」、そして「医療ソーシャルワークとは何か?」、そして「がんソーシャルワークとは何か」という順番で、自身の思考をブレイクダウンしていくことが必要なのだと思うのです。
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わたしは、そのことにずっと違和感を覚えていました。
かつ、「ソーシャルワーカーとしての自分が、職業人として、”いつ、どんな領域”においても、常に生み出せる価値を最大化できるためには、どうするべきか」という問いがずっとありました。
例えば極論ですが、「明日から生活保護のケースワーカーになれ、児童相談所に行け」と言われたときに、
『”自分がもっているもの、強み、弱いところ”を自覚できており、その上で、新しい機関において、ソーシャルワークを提供するにあたり、対象となるであろうクライエントが有する問題の傾向や種類、それに伴う至急仕入れなければならない知識、最低限有しておくべきネットワークのメンバーと規模感(これは、同じ組織の人に聞きまくればいいこと)を推測し、「明日から新しい場で提供するソーシャルワークの質を最速で一定レベルまでもっていく準備」が主体的にできること』ということが出来ないのであれば、自分が「スキル」だと自覚しているものは、「領域という文脈に依存するスキル」であり、「専門職としての基礎となる能力」では無いのだ、とずっと思ってきました。
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私が、可能な限り実践から得たものを一般化しなければと思うのは、上記で記したことがもとになっています。
自分のやり方やスタイルが、自分の身を置く領域でしか有用でないのであるとしたら、それは「領域という文脈に依存するスキル」だという自覚がないと、ソーシャルワークの専門性の領域依存はどんどんすすんでいくように思うのです(医療で言えば疾患、臓器)
「ソーシャルワークの専門性」という共有可能な文脈が非常に弱い、という前提条件を有している日本のソーシャルワーカーは、社会のなかで、自分が身を置いている領域の特性と、自らがそこで稼働し価値を生み出している専門性(だと思っているもの)を近似して考えてしまいやすいと考えます。
近似した結果すすんでいく、ソーシャルワークの専門性の領域依存は「領域という文脈に依存するスキル」を大量生産し、だから、昨今の認定社会福祉士等のナンセンス極まりない方向にすすんでいってしまうのではないか、と。
これでは、業界のナレッジの共有なんてできるはずがありませんし、誰もそういったことに本気で取り組もうとしないっていうのは本当によくわかるのです。
なぜなら、「おれは、わたしは、専門家よ!」という宣言を、「ソーシャルワークの専門性とは何か?」という前提条件となる問いをすっぽかし、わかりやすい「ソーシャルワークの専門性の領域依存」に逃げていけば楽ですし、それでリーズナブルな「専門性(っぽいもの)」を得られるからです。「安くて、早くて、うまい!(それなりに)専門性」とんだ、吉野家状態です。
「ソーシャルワークの専門性」という共有可能な文脈を業界全体が勝ち得て、「ソーシャルワークの専門性の領域依存」から脱することができれば、それは、「ソーシャルワークの専門性の領域”特化”」に進化できると考えます。
ですが、日本のソーシャルワークが、そのフェイズにすすむのは、時期尚早なのでは?いうことを誰かが言わなねばなりませんが、日本社会福祉士会が認定社会福祉士(高齢分野、障害分野、児童・家庭分野、医療分野、地域社会・多文化分野)をつくった時点で、日本でそれが言えるプレイヤーが完全に消失しました。
要するに、
『どのような領域であっても組織に属していても、クライアントの個別の問題からミクロ、メゾ、マクロに実践の線を引くことができる(線の長さは長短あれども。つまりは、個人の問題を社会化するプロセスをつくれる。)ことが、ソーシャルワーカーの専門性だ』と考えた時、その社会的意義を捨ててでも、つまりは脱専門職化してでも、日本社会福祉士会が”生み出したい未来”とは、何なのか?
中堅SWerたちは、「問い」により、いい意味で業界を突き上げ、若手を動員し、業界をまずは変えていかないと、どんどんこの仕事の社会的意義は刈り取られていく気がしてならない。
「内発的問い無き実践は、ルーティンワークであり、ソーシャルワークではない。」という言葉を思い出しては胸を刺される夜。
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