エッセイ)"過去の経験という獣”と、言葉という”鎖”という概念を採用して思うこと
公開日: 2014/02/08 MSW コミュ論 思索 自己覚知
これをすると必ず”鎖”の強度が落ちるとわかっていても、やってしまう。学習しない脳のアホらしさに嫌気がさしつつ、『"鎖"の強度が落ちる理由は、わかっているのにね。あたま悪いね。』と心の中で毒づく。
私は、ハタチの頃、過去の経験を”獣”と定義した。
そして、その”獣”をコントロールする”鎖”を言葉でつくることにした。
鎖で雁字(がんじ)搦めにした獣が、暴れだす。
鎖の強度を自分で下げておいて、それをまたあげるのに、多大な労力を割く。
ほんとあほくさいなあ、と思いながらも、この定義を採用して早9年。それに変わるものを見つけられずにいる。
鎖の強度をあげつつ、獣を飼いならすために余計な労力が割かれると思うと憂鬱で仕方ない。一旦落ちた強度を再度あげるには、それなりに時間がかかる。
”鎖”はコントロールするために採用した概念ではあるけれど、如何せん、外部要因により、どうしても強度が下がるという難点がある。けれど、これに変わる概念を採用できないでいる。
採用した概念たちは、どうしても耐久年数があるように思う。最長で10年。短いもので1,2年。これは、採用したときにはわからない。採用してみて、自己内でどう定着するかということを見ていくほかないから。
獣を飼いならす”鎖”という定義は、過去の経験をコントロールするために採用したのだが、頭の悪いことに、鎖の強度が落ちて、それを戻そうとする過程に、学習しないという難点がある。
強度が落ちる→戻そうとする。
この過程における「取り戻す」にかかる労力は、学習がないので、コストカットできない。学習機能を持たせておけば、強度が落ちて、再度あげるたびに、その過程で学習し、再度強度を上げる際のコストを下げられたのにとも思うが、こればかりは仕方がない。
だから、20歳になっても、30歳になっても、鎖の強度が落ちる→戻そうとする。
この過程における「取り戻す」にかかる労力は、学習がないので、コストカットできない。つまりは、10年経っても「取り戻す」際のアップデートが効かない。とんだ不備があったもんだ。
経験という獣をコントロールするに採用した”鎖”という概念に置ける不備は、「強度を戻す」過程に学習機能を設けなかったことだ。だがしかし、気づくのはだいぶ遅くて、もう10年も経ってしまった。今から、その機能を追加しようにも、やり方がよくわからない
いや、そもそも学習”機能”と呼べるような「機能的」な問題ではないのかもしれない。
だとしたら、前提条件から引っ繰り返して考えることを迫られているのかもしれないけれど、今はそんなことをしている時間も暇もないんだ。だから、この概念が10年目以降もそれなりに稼働するよう祈るほかない。
強度を戻す際の学習機能が存在しないとしたら、今後考えていく必要があるのは、経験という獣をコントロールするために採用した”鎖”という概念における、鎖の強度の低下を防ぐことのできる”何か”を得ることができるか、そもそも存在しうるのか、ということなのだと思うのだけど、めんどくさい…
経験という獣をコントロールするために採用した”鎖”という概念における、鎖の強度の低下を防ぐことのできる”何か”…
獣をコントロールするための”鎖”という概念における、鎖の強度の低下を防ぐことのできる「超強度を付加するモノ」
そもそも、強度をあげる必要がそもそもあるのか問題も発生する。
鎖という概念自体が「制御」的な思考を含む。
「制御」的な思考を捨て、鎖の強度を無効化したとき、獣は暴れ出すのか否か。
鎖で雁字搦めにしているから暴れ出すのであり、鎖を無効化する”何か”別の概念があれば違った結果になるのか…
「制御」的思考の果てに得た、経験という獣を鎖でコントロールするという概念は、そもそも鎖を無効化する”何か”別の概念があれば、経験は”獣”ではなくなり、”他の全く違った何か”になるのだろうけれど、その何か別の概念にたどり着ける気がしない。
過去の経験を”獣”と見立てたのは、自分に”危害”を加える可能性を多分に含んでいると考えたからだったのだが、結果として、獣は、鎖でコントロールしなければ、主の首元をかっ切ろうとし、だが、主である自分が獣の息の根を止めてしまえば、それは過去の全否定になるというどうしようもない状況を生んだ。
そもそも、過去の経験を”獣”と見立てたところから間違っていたのかもしれない。獣に殺されるか、自分が獣を殺すか(過去を全否定するか)、その中庸を成すには、無機質で冷徹な”鎖”でのコントロールという概念が必要だったのだ、と思う。
過去の経験を”獣”ではない何かで見立てる必要があるのかもしれない…
そう思うと共に、私が獣をコントロールするための”鎖”は”「言葉」でつくられる。
だから、私はこれほどまでに言葉に固執し、言葉を吐き出してきたのだとも思う。それが社会に”正”なる形でアウトプットされ、誰かの役に立てたりしたこともまた事実なのだと思うと、何が正しかったのかはわからない
結局、人間の、他者から見て取れる膨大なエネルギーや意思みたいなものたちは、他者の目には決して見えない底深いところで、どろどろと渦巻いているものたちが、「各々の濾過フィルター」を通して、出てきた、みえるようになったものだということを私は疑わない。
奇麗で純なものは、膨大なエネルギーや意思を生まない。人間の底深くでどろどろと渦巻くカオスは底が知れず、取り込まれれば、人をダメにする。それを「濾過フィルター」に通そうと、血反吐を吐いてきた人間だけが、渦巻くカオスを、膨大なエネルギーや意志として社会に照射できるのだと思う。
そんな中、最近気づいたのは、やはり自分は”言葉の扱い方”に惹かれるという要素が非常に強いということ。言葉を目にし耳にすると「この人のこの言葉は、きっと、こういう扱い方をされて、ここにきたのだろうな」って感じることがある。
私は、言葉を「鎖」としてイメージ化せざるを得なかったので、
「どう考えても、この人の言葉の扱い方は”鎖”とはほど遠いところにある」
と感じたとき、その”ほど遠いところにある何か”と、その持ち主に惹かれるということが、あるのだなと。
『私は、ハタチの頃、過去の経験を”獣”と定義した。
そして、その”獣”をコントロールする”鎖”を言葉でつくることにした。』
このことを、少しも間違っていなかったとは胸を張って言えないけれど、
そうでもしなければ、乗り切れなかった局面もあっただろうし、実現できなかったこともあった。そして、なにより、言葉の持つ罪深さと、可能性に気づくこともなかったのだろうな、と思う。
私はやっぱり、言葉に強烈に惹かれ、ときに、もの凄く傷ついて、でも、どこまでも、言葉で未来をイメージし、イメージを現実のものにしていきたいと思うのだ。
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