エッセイ)『ドライフラワー化する”経験という花”』

公開日: 2014/01/25 エッセイ 思索



「もう、あのときのことを思い出して言葉にしようとしても、
誰にでも伝えることのできる”決まり文句”か、新しい言葉を探そうとしても、
今の自分とは乖離し過ぎた感じがして、ざらついた手触りの悪い言葉しか、
見つからないの。」


月夜に照らされ足下にできた輪郭のおぼろげなシルエットは、
誰にも表情を見せずにそう口にした。

そのとき、ふと思った。

過去の経験が、枯れたて、ドライフラワーになったのだな、と。
いや、ドライフラワーにすることが「できた」のだ、と。


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『経験という花は、それを”意味付ける言葉”たちと、
その”宛先”を得る過程の末に、ドライフラワー化する』


ドライフラワー化した経験は、
アクセサリーのような「予定調和的」なファッションになる。


いつ、どこでも、誰に対してでも、語ることのできる経験は、
ドライフラワーボックスに入ったドライフラワーのように、
いつでも取り出し、「ねえ、こんなことが昔あってね」と手にとり、言葉にできる。


ドライフラワー化に至る以前の経験たちは、ギラギラと粧い、香りを撒き散らしながら、
過去のとある地点から、経験の主(あるじ)を眺めている。



「ねえ、あなた、もっと、わたしに構って、語って。
まだ、わたし、あなたに、語り尽くされていない」


「いや、キミのこと(経験)は、もう言葉にし尽くしただろう?」 


そう、主(あるじ)が、言い切ったとき、
経験という花は、ドライフラワーになる。


過去の経験は、それについて語る時間を重ねることで、
熱量や想いは少しずつ色あせ、彩りと温度を失う。粧いは剥げ、香りは消えていく。


『経験という花は、それを”意味付ける言葉”たちと、
その”宛先”を得る過程の末に、ドライフラワー化する』


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経験という花がドライフラワー化するまでにかかる時間の針は、
"経験自体が持つ主への影響の大きさ"、"それを意味付ける言葉"たち
そして、"宛先という他者性"の3つが複雑に絡み合いながら、進んでいく。



そして、この3つのうち、主のコントロール範疇の外にあるのが、
宛先という他者性」だ。



「宛先という他者性」は、生身の他者であり、文脈の中の他者であり、
主(あるじ)が今・これから出会う全てのこと、を包括する。


生身の他者がもつ「他者性」は
『”あなた”が、あなたの経験を語る言葉の先にある
”宛先”に”わたし”はなることができる。』と言い切ることができる。

この文脈上、宛先である”わたし”は、”宛先として、あなたの言葉を受信する” そして、”受信”の仕方はおそらくふたつあるような気がしている。


”意味を紡ぐ過程に寄与する受信” これは、経験への意味付けへの積極的関与受信。

”意味の付与の瞬間を保証する受信” これは、経験への意味付けの過程における”舞台”、”観客”のような場を共有し、
「あなたの意味の付与の過程」を「わたしも居て、見て、”保証”したよ。」
という受動的関与受信。



これは、対人援助職の現場における「聴く」ことについても言えることだと思う。



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文脈の中の他者がもつ「宛先という他者性」


「宛先」は、なにも生身の人間に限らない。それは本であることもある。 自分と同じ文脈を、本の中の文章に見出したときにシンクロする感覚で、
「宛先を得た」充足感が得られることもある。私はずっとそうだった。


『自分と同じ文脈を、本の中の文章に見出したときにシンクロする感覚で、「宛先を得た」充足感が得られる』というのは、本の中の一文から、わたしが紡ぎだそうとしている意味を”受信”してもらえたのだ、という”宛先という他者性”を得ることとおそらく同義なのだとずっと思っていた。


だから、自分が自らの経験に意味を付する過程に生まれる言葉の「宛先」を貪る読書というのは、ただただ、本の中の文脈に「意味の受信」という他者性を見出だすだけの、孤独な時間でもあるように思う。


だから、逆説的に、読書をしていて、「自分に強烈に接続する」感を得るものは、「今、自らの経験に意味を付する過程」に、必要な言葉に近しいものであるから、シンクロニシティを生むのだと思う。


これは、出会いなのだと思う。

文脈の中で「宛先という他者性」と出会うのだ。


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そして、「今・これから出会う全てのこと」は、
外部刺激として、経験の主に接続する。

先に書いた
「経験がドライフラワー化するまでにかかる時間の針の早さを決める3つの要素」


・経験自体が持つ主への影響の大きさ
・それを意味付ける言葉たち
・宛先という他者性


「意味付ける言葉」の強度が高ければ、針の早さは加速する。
唯一、主がコントロールできない「宛先という他者性」の強度が強ければ、
容易に「時計の針の速さ」は狂いだし、同一のテンポを刻めなくなる。



経験が真なる意味で”語られ”、意味が振り絞られ、

いつ、どこでも、誰に対してでも、語ることのできる経験に昇華するには、
(経験という花がドライフラワーになるには)



・経験自体が持つ主への影響の大きさ
・それを意味付ける言葉たち
・宛先という他者性


この3つが複雑に絡み合って創られる「その人だけの時計の針」が

とても大切なものになるのだと思う。

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援助者として現場に立つとき、沈黙の場に身を置いたとき、
身を引きちぎるように、身体から言葉を絞り出そうとする人に出会うとき、
私は、宛先としてのカラダについて意識する。
相手の言葉というよりも、むしろ、自分のカラダが、そのときいっときに、
相手にとっての”宛先”として機能し得るか否か、そんなことを思う。


相手が発する言葉に対して、自分がどんな言葉を還すかというのは、
ときに野暮で意味をあまりもたないのかもしれない。


そんなことを、『自らが「宛先という他者性」をどうカラダにそなえるか?

ということを考えるとき、いつも思う。



「もう、あのときのことを思い出して言葉にしようとしても、
誰にでも伝えることのできる”決まり文句”か、新しい言葉を探そうとしても、
今の自分とは乖離し過ぎた感じがして、ざらついた手触りの悪い言葉しか、
見つからないの。」


おそらく、他者のこの言葉を変えることができるとしたら、
それは、「宛先という他者性」だけだと思うから。


でも、この言葉を変える必要があるかどうかは、また別の話だ。





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