”ひらきぐあい”という名の関係性の窓(エッセイ)
公開日: 2013/08/27 MSW エッセイ コミュ論 思索
以前に、在宅退院の手伝いをした独居のじいさん。
再入院したとのことで、病室に顔を見に行ったら、
開口一番「おおーい、あんた、痩せたなあ」と、あごをさすりながら言われた。
(おいおい、じーさん、あんたのほうがやつれたよ)
と心の中でおもいつつ、「いーや、髪切ったからですよ!」と髪をぼさぼさしてみせると、
じーさんは「がはは!」とすこし大袈裟に笑った(てくれたような気がした)
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どういった境地にあれども、人に対して気遣う、ボールを投げることのできる人からは、
「ひらいている」と感じる。その人なりの「親しみのポーズ」であるときもある。
どんなシグナルにせよ、他者に対して「ひらいているか」「とじているか」「ひらきかけか、とじ気味であるか」ということは、出会った瞬間に汲み取るほかない。
身体や心が健康であれば、他者に対しての「ひらきぐあい」は意図して、自分の都合の良いように調整したりできる。そして、それは日々色々な場面でかけひきに使われたり、色んなところで、人は自分の他者への「ひらきぐあい」をいじっては、微調整している。
ひらきすぎても、自分の懐を探られるのでは、という怖さもあるし、
とじすぎていても、他者と交われないことからくる孤独を生む。
どちらも「過ぎる」と、自分を傷つけたりすることがあるのかもしれない。
けれど、心と身体に不具合があれば、「ひらきぐあい」というのは、微調整も難しくなるし、そこに意識をむけることも大変になる。
だからこそ、心と身体を病んでいるとき、他者に対してその人がみせる「ひらきぐあい」は、その人が、本来もっている、今まで培ってきたいろいろなものがあつまってできた人との関係性の「窓」のような気が、いつもしている。
窓の大きさは変えられない。
だから、意図してカーテンで光量を調節したり、
二重窓にしたりして外からの雑音を遮ろうとしたりする。
心と身体の健康が損なわれると、窓はカーテンも二重窓も外れ、
むき出しになってしまうことがある。
それは、よくもわるくも、自分の度量衡みたいなものを
自覚することになるのかもしれないな、と思う。
死期を目前にした、じーさんの「おおーい、あんた、痩せたなあ」という言葉から垣間見えたじーさんの「ひらきぐあい」という名の窓は、はて、むき出しの窓なのか?それとも、カーテンや二重扉がついたものなのか?
今の自分には見定める術なんぞないんだなあと思わされた。
そんな秋めいた日の午後。
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