クライエント・援助者間の援助関係における主体取り違えのリスクについて考える
「クライエント・援助者間の援助関係における主体取り違えのリスク」とは、援助過程における舵取りをクライエントから奪ってしまうことにある。つまりは、ソーシャルワークの死を意味する。
これは意図せずとも、起こりうることだ。
そして、これは、援助者が用いる言葉に如実に表れる。
例えば、「クライエントのニーズを引き出す」という論。
自己表出できずに来た人間が援助者となり、クライエントの自己表出の扉をあけようとするとき、自己表出には、恐怖やカタルシスのような雑多な要素が混じり合っていることに意識が向くことが少ないように思う。ニーズを”引き出す”という言葉を用いる人間は、この傾向があるのかもしれないと常々感じてきた。
ニーズは、ソーシャルワーカーが引き出すのではない。クライエントが発露するものだ。
この時点で、援助関係における主体取り違えが起こっている。
引き出すという言葉は、SW主体の語。発露する主体は、クライエントだ。
ソーシャルワーカーにできるのは、安心して発露することのできる環境をつくること。
これを間違えるべきではないと思う。このことはどんなに言っても言い過ぎることは無い。
これを間違えるべきではないと思う。このことはどんなに言っても言い過ぎることは無い。
言葉は、援助者自身の行動を規定し、援助者自身の職業的価値の成熟を助ける。
であるとしたら、自身の実践を表する言葉を、どのように選び、整えていくか、ということを考えることで、「援助関係の主体取り違えのリスク」も軽減し、回避できるかもしれない。
自己表出の話に関して言えば、自己表出には、ものすごい労力と能力を必要とする。
比喩的表現になるが、腹の奥底に潜む言葉にならない”真のニーズ”なるものが、本当にあったとしても、腹の底にたぎるマグマの中に手を突っ込んで、引き出してくれる存在なんていやしない。
腹の底に潜むマグマの温度を下げ、自分自身の手を突っ込み、死に物狂いで引っこ抜いたものが”真なるニーズ”だとしたら、クライエントが発露するものは、マグマが冷え固まった岩石に他ならない。
ソーシャルワーカーにできるのは、マグマの温度を下げる手助けと、手を突っ込む勇気を得るために背中をそっと押すことくらいだ。
ソーシャルワーカーにできるのは、マグマの温度を下げる手助けと、手を突っ込む勇気を得るために背中をそっと押すことくらいだ。
主体を取り違えることほど、この仕事をしていて恥ずべき瞬間というのはない。
モチベーションと問題発見・解決能力のエンジンが全開になるような”ソーシャルワーカーズ・ハイ”なる言葉が、もしあったとしたら、それは常に、援助のプロセスにおける主体を取り違える危険性と表裏一体の関係にあるように思う。
クライエントと共にすすむプロセスにおいて、常に「このプロセスの主体は誰か?」という問いを有していないと、主体は容易にすり替わる危険性がある。
援助過程における舵取りをクライエントから奪ってしまった瞬間、ソーシャルワークは死せるものとなる。
ソーシャルワーカーとして、常に、このことを胸に留めておきたい。
クライエントと共にすすむプロセスにおいて、常に「このプロセスの主体は誰か?」という問いを有していないと、主体は容易にすり替わる危険性がある。
援助過程における舵取りをクライエントから奪ってしまった瞬間、ソーシャルワークは死せるものとなる。
ソーシャルワーカーとして、常に、このことを胸に留めておきたい。
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