言語化するための"気づき"を増やすための「自分棚卸し」について考える

公開日: 2013/05/18 MSW SW解体新书制作委员会 自己覚知



ここ最近、メルマガ「ソーシャルワーク言語化のススメ」で「自分を棚卸しする」というテーマについて書きました。よい機会だと思いましたので、ブログでも「自分を棚卸しする」ということについて、HYの経験も踏まえ、その意味をお伝えさせていただこうと思います。


1.「自分を棚卸しする」目的とはなにか?

私は、今まで、ブログで「ソーシャルワークを言語化することの必要性」について書き綴ってきました。(過去エントリ:「なぜ、ソーシャルワーカーに言語化する力が必要なのか?」という問いについて考える

「自分を棚卸しする」目的は、言語化するための”気づき”を得ることだと考えています。




2.「自分を棚卸しする」ことと、「言語化に至る過程」の関係


言語化に至る過程は、”気づく→問いが生まれる→思考し、言語化する”であると考えます。


”気づく”には、気づきを生み出す源泉である自分のモチモノが必要になります。
モチモノとは、言ってしまえば、体験や経験(人と会う、本を読む、新しい事実を知る…等)と呼ばれるようなものの総体です。


気づきを生み出す源泉は、「新しい」経験や体験だけでありません。
新しい気づきは、新しい経験からだけ得られるのではなく、例えば、過去の経験を、現在の自分が有する「新しい視点」で切り取ることで、過去の経験から、新しい気づきが生まれることがあります。

ですから、「自分を棚卸しすること」とは、「自分の今までの人生を材料として、新しい気づきを得るための源泉を探したり、モノを見る際の”新しい視点”を得るための作業」と言い換えられるのです。

そして、これは対人援助職として「自己覚知」をすすめる上でも、活用できるものだと考えています。




3.私が「自分の棚卸し」を行なうことになった理由

このテーマについて、私自身が、それなりの量の文章を書くことができたのは、「自分棚卸しワーク」を意図せずとも、過去に行なっていたからなのだと思っています。


自分語りになりますが、私個人の「自分棚卸しワーク」のルーツは約10年前に遡ります。


”物語ることのできる力”は、経験に意味を付与する力に変わり得るものです。
つまりは、言葉という鎖で、経験を飼い慣らす、ということであり、経験は、主の首を噛みきる獣に成り得るのです。だからこそ、物語り、言葉という鎖で、経験を飼い慣らす(意味づける)のです。

私はこのことに、19歳の時に気がつきました。

経験という獣を飼い慣らすための意味づけを付与する”物語る力”は、経験が獣に化けかけている人間にとっては、生きていく上で至急必要な延命ツールだということを、獣の刃を首元に突きつけられた人間は知っているのです。


私が当Blogで語る「ナラティブ論」や「自己覚知論」は、この10年間で積み重ねてきた経験がベースになっています。そのベースの上に、ソーシャルワーカーとして学び、得たものを積み重ね、論を構築したのだと考えています。


当時、私にとって”生きていく上で至急必要な延命ツール”であったモノが、”経験との距離感”が、安定期に入った今、他者と共有可能な多少価値のあるものに変化した、ということは、非常におもしろいことだと感じています。


メルマガ「ソーシャルワーク言語化のススメ」の「自分を棚卸しする」シリーズでは、以下について書いてきました。


1.キーワードで価値観を表現する 2.人生のターニングポイントを知る 3.自分の「偏愛」を知る 4.自分がやるべきミッションを知る
5.価値観キーワード&ターニングポイント&ミッションをマッピングする


言語化するには、問いを生成するための気づきが必要です。

気づきを得る(方法を生み出す)ためのひとつとしての「自分棚卸しワーク」だと考えています。上記の内容をもとに、いずれ、自分振り返り(職業的には、自己覚知)ワークショップをやりたいなと思っています。




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