「師とは何か」という問いについて考える
公開日: 2013/05/14 MSW 思索 勝手にブックレビュー 読書記録
『私の方に「この人の真の価値を知っているのは私だけだ」という思い込みさえあれば、もう先生は先生であり、「学び」は駆動するのです』
これは、内田樹氏著の「先生はえらい」の中の一文です。
私はこの一文によって、「師とは、学びとはなにか?」という問いに出会うことができました。考え方の枠組みを拡張してくれた一文と言っても過言ではありません。
私は「○○という理由で、師として仰ぐのだ」ということを言葉にしようとするとき、どんな言葉を選んでも、どうしてもその理由が自身の中で「しっくりとこない」と感じていました。
師のすごさを自分の言葉で語ろうとしても、なんだか胡散臭くなってしまう。
それは「他者にとって胡散臭い」のではなく、ただ単に、「師がなぜ自分にとって師なのか」という理由を語ろうとする言葉を、「自分自身の言葉」として有していないことからくる「胡散臭さ」だということにも気づかせてくれたのです。
冒頭の一文を言い換えれば、「なんだかよくわからないけれど、この人についていけば、なんだかすごいものが学べる気がする」と感じることができた瞬間に「師への学びの姿勢」はほぼ完成するのだと、私はそう結論付けました。
これは学びといえるもの全てに共通するものだと思います。「なんだかよくわからないけれど、すごい」と感じるとき、「その理由を言葉にすべく」その対象となるヒト・モノを「師」とするのだと思うのです。
「わからないこと。言葉にできないこと」の対象になるヒト・モノこそが、学びを駆動させる「師」となり得る可能性を有しているということを、冒頭の一文は、私に黙って説いてくれたのです。
まさに、私自身の新しい学びを駆動させてくれた「師」となる一文でした。
内田樹氏著の「先生はえらい」
内田樹氏著の「先生はえらい」
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