問いから言語化に至るプロセスについて考えるvol1(過去エントリを材料として)
公開日: 2013/04/28 MSW SW解体新书制作委员会 思索 問いから言語化に至るプロセス
本号では、私が記した過去のブログエントリを取り上げ、どのような問いから言語化に至ったかというプロセスについて、具体的にお伝えしていこうと思います。
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患者さん家族の「揺れ」に付き合うには「余裕」が必要だと思う。
「揺れ」は一緒に混乱することではなくセンターラインの位置がわかった上で、サイドステップを繰り返すイメージ。
つまりは、立ち位置を明確にした上(言い換えればどのようなスタンス、目的をもってその人に対峙するかということ)で、同じような揺れ幅で意図的に揺れるには、揺れることのできる「余裕」が必要なのだと思う。
患者さん家族と医療者側の事実の認識スピードは、比喩すれば「自転車と新幹線ほど違う」のだと思う。
ラベリングすれば医療者側は楽になる。「理解の悪い本人・家族」というラベルを張った瞬間、その人たちの「揺れ」に付き合えなくなる。限られた時間の中で、その圧倒的なスピード感の違いの中で対象となる人と一緒に意図的に「揺れる」ということは体力的にも精神的にもしんどいことが多い。
「揺れ」に付き合うことは「共感のポーズ」ではない。
「揺れ」に付き合うことは「揺れること自体を後押しすること」
一定のラインを越えれば「揺れ」は一つの方向性を見つけそれに向かって人や環境は変容していく。ひとつひとつの揺れを徹底的に検証し強めあうことで、現時点での確認作業を終えることができる。すなわちひとつの方向性を描ける。抽象的だけれども、感覚的に掴めつつある。要言語化。そして実践での積み重ねが必要。
患者さん家族の「揺れ」との付き合い方はいろいろな方法があるけれども、意図的に付き合う以上、意味のあるものでなければならない。共感は「揺れに付き合う」ことに内包されることのような気がする。
(抜粋ここまで)
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(上記内容の解説)
冒頭に結論。「患者さん家族の揺れに付き合うには余裕が必要」
と述べています。
と述べています。
当時、様々な決定を短い時間で迫られる患者さん家族と向き合う中で、「どうしよう」と言葉にする人を目の前にしてソーシャルワーカーとしての自分も、同様に「どうしよう」と、振り回され、巻き込まれる、ということを経験していました。
一緒に悩むことは「態度」としては正しいかもしれないけれど、専門職として、おこなうべきことは、それだけではないはず。ですが、そのことがうまく腑に落ちることなく日々、現場に立っていました。
そんなとき、上司に言われた一言が「あなたも、一緒に揺れてどうするの。揺れるのは、患者さん家族であって、あなたじゃないはず」という言葉でした。
ソーシャルワーカーの「揺れ」は、一緒に揺れるのではなく、揺れに「寄り添う」言わば、「揺れに付き合う」そして、それは「意味のある」揺れとの「付き合い方」でなければいけないのではないか、という問いが生まれたのです。つまりは、
揺れとの付き合い方に「意味を持たせる」のだと考えたのです。
>「揺れ」に付き合うことは「共感のポーズ」ではない。
>「揺れ」に付き合うことは「揺れること自体を後押しすること」
>「揺れ」に付き合うことは「揺れること自体を後押しすること」
上記が、当時の私が出した、「揺れとの付き合い方への意味付け」でした。
揺れは、いつか収まり、ひとつの着地点を持つ。だとしたら、着地点に向けたプロセスとしての「揺れ」を後押しし、ソーシャルワーカーとして、患者さん家族と共に、着地点を見出せばいい。そのように考えたのです。
【気づき】
・揺れに巻き込まれる自分
・上司からの一言で考えた「揺れることの意味」
上記から生まれた【問い】
・「揺れるとはなにか?」という問い
・「ソーシャルワーカーとしてクライエントの揺れにどう付き合うか?」という問い
以上の問いにこたえる中で生まれた、「揺れに付き合う」という感覚の言語化。
・上司からの一言で考えた「揺れることの意味」
上記から生まれた【問い】
・「揺れるとはなにか?」という問い
・「ソーシャルワーカーとしてクライエントの揺れにどう付き合うか?」という問い
以上の問いにこたえる中で生まれた、「揺れに付き合う」という感覚の言語化。
以上のようなプロセスを経て、「揺れに付き合う」というエントリは構成されています。
日々の、小さな気づきを、問い生成ボックスに放り込み熟成させ、できた問いに向き合うことで、「言語化される」それこそが、実践知(暗黙知)を言語化することなのだと思うのです。