ナラティブ・アプローチ論:「こたえ」という表象物がもつ意味について考える
本エントリでは、私個人が考える「ナラティブ・アプローチ」論における、「こたえ」(別称:決定、決断など)と称される事象について、『ナラティブ・アプローチ論:「こたえ」という表象物がもつ意味について考える』と称し、記していこうと思います。
人の気持ちや意思には、真なる意味で「こたえ」と言えるものはないと考えます。
「こたえ」は外部化し他者と共有できるものではなく、その人自身の中に、揺らぐように存在し、その揺らぎは、時間やその他の要素によって生まれ、その都度、「こたえ」という名の表象物は変わります。いや、変わるというか、そもそも、変わることが前提のように思うのです。
「こたえ」という表象物は、揺らぎ続ける気持ちや意思に楔を打つことにより生まれます。それは自らの内発的動機から生まれることもあれば、他者からの外発的な要請により「生み出される」こともあります。
そのことにソーシャルワーカーは自覚的でないと、ソーシャルワーカーである自分の存在を含めた様々な要素がクライエントにどのように作用し、「こたえ」という表象物を生み出したのか(他者と共有できる場まで浮上させたのか)という、「揺らぎ続ける気持ちや意思に楔を打つまでのプロセス」を想像することが難しくなるように思います。
クライエントの決定は「こたえ」ではなく、揺らぎ続ける気持ちや意思に楔を打ち込み、動きを止めた「こたえ」という表象物なのだと考えると、「こたえ」ではなく、楔を打つまでのプロセスに目を向けることができます。そして、プロセスにどのような意味を共有するかということは「こたえ」よりも大切にされるべきだと思うわけです。
プロセスへの「意味づけ」は「後づけ」だからこそ、「後付けの意味付け」作業を、強化すること、補強すること、壊すこと、その過程に他者は寄与したり、加担したりできるのです。
これは恐ろしいことでもありますが、クライエントがゆらぎに対して打った楔の強度を強めることもできるという可能性も有していると言えます。
これは恐ろしいことでもありますが、クライエントがゆらぎに対して打った楔の強度を強めることもできるという可能性も有していると言えます。
「あのときああ言ったじゃないか」などと思うことは、クライエント自身が、過去の揺らぎ続ける気持ちや意思に対して打った「こたえ」という楔を、無理矢理引っこ抜こうとする馬鹿げた行為でしかありません。こたえという表象物は、約束でも契約でもないのですから。
約束でも契約でもない「こたえ」に対して、「あのときああ言ったじゃないか」と問うてもいいのは、その言葉を吐いた先ずっと、その人自身の揺れ続ける気持ちや意思に対する楔を打ち込む行為を共に行ない続けることができる人だけです。ですが、そんな他者がどこにいるというのでしょう?
気持ちや意思の揺れに楔を打ちできた「こたえ」という表象物を、少し先の未来から、振り返ったとき、その人自身の人生にとって整合性を与えてあげられる目印になるのであれば、揺れを止めた楔は、「時間」という不可逆性の要素を得て、より強度の高いものになるのだろう、とも思うのです。
私個人の「ナラティブ・アプローチ」論は、上記の内容に依拠します。
援助の過程において、時間軸を視野に入れることで、クライエントと共有する「現在」が、その人の未来に、どのような後付けの意味づけをなされる可能性があるだろうか、という想像を得ることができるのだと思っています。
援助の過程において、時間軸を視野に入れることで、クライエントと共有する「現在」が、その人の未来に、どのような後付けの意味づけをなされる可能性があるだろうか、という想像を得ることができるのだと思っています。